薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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故郷 壱

 門をくぐった瞬間、空気の粒が変わった気がした。後宮の廊下に漂う、磨かれた木と香の薄膜じゃない。油と土と湯気と人の声が、遠慮なく混ざった町の匂いだ。俺の胸の奥に、温かいものと気恥ずかしさが同時に湧いて、思わず歩幅が乱れた。猫姉は乱れない。乱れないけど、鼻先だけが小さく動いている。あれは面倒が増える前の顔だ。

 

「……懐かしいですか」

 

「別に」猫姉は即答した。「懐かしいとか言うと、面倒が寄ってくる」

 

「じゃあ、せめて腹ごしらえを。屋台が、あの頃のままですね」

 

「腹ごしらえじゃない。食べたいだけ」猫姉は言い切って、通りの向こうを顎で指した。「まずあれ」

 

 串を焼く煙が、風に乗ってこちらへ流れてくる。肉の脂が炭に落ちる音が、聞こえた気がした。店先には赤いタレの壺。香辛料の袋。笑い声。俺は無意識に喉を鳴らしてしまい、猫姉に横目で見られる。

 

「……何です」

 

「あなたも食べたい顔してる」

 

「いえ、俺は……猫姉が久しぶりに色々食べたいって言うなら、付き合うだけです」

 

「嘘」猫姉は短く言った。「でも、嘘つくの上手くなった。面倒」

 

 串焼きの屋台は混んでいた。俺が並びの最後に立つと、猫姉は当然のように俺の隣に立ち、当然のように注文を始める。

 

「肉串。塩二本、タレ一本。あと、脂多めのやつ」

 

 屋台の親父が「お、通だねえ」と笑う。猫姉は笑わない。笑わないのに、目だけが少しだけ真剣で、俺はその横顔に変な安心を覚えた。猫姉が“好きなもの”を前にするときは、難しい話をしない。たぶん、今だけは。

 

 焼けた串が渡される。猫姉は塩の串を受け取ると、いきなり一口目で芯まで行った。豪快というより、迷いがない。肉の繊維が歯でほどけて、脂がじゅっと舌に広がる。その瞬間だけ、猫姉の眉がほんの少し上がった。

 

「うまい」

 

 たった二文字。なのに、その言葉に屋台の親父が嬉しそうに胸を張った。

 

「だろ? この町の肉串は裏切らねえ」

 

「裏切る串もある」猫姉は言い、次の一口を噛みながら続けた。「今日は裏切ってない。良い日」

 

 俺も一本、塩をかじった。炭の香りと肉の甘み。後宮で食べるものは丁寧に整っているのに、どこか遠い。町の串は荒っぽいのに、近い。胸の奥が妙に熱くなる。猫姉はタレの串に持ち替え、今度は先端を軽く舌で触れてから口に入れた。味見の仕草だ。

 

「……猫姉?」

 

「黙って食べて」猫姉は言ったが、目は串ではなく、屋台のタレ壺を見ていた。「このタレ、甘い。砂糖じゃない甘さ」

 

「蜜……ではないですね。香りが残る」

 

「油が芯」猫姉が小さく呟く。「甘い油。衣や紙に移るやつ」

 

 その言葉で、俺の背中が少し冷えた。後宮に残っていた、あの甘い匂い。料理の甘さじゃなく、油を芯にした甘さ。俺は串を持ったまま、周りを見回した。屋台は賑やかで、誰も事件の匂いなんて気にしていない。けれど猫姉の鼻は、勝手に拾ってしまう。

 

「親父さん」猫姉が、唐突に屋台の親父に聞いた。「そのタレ、何入れてる」

 

「おいおい、秘伝だよ」

 

「秘伝なら秘伝でいい。甘さの元だけ」

 

 親父は少し悩むふりをして、でも客の顔色を見て笑った。

 

「干した果実の蜜、少しな。あと、香り付けに油をひと垂らし。髪油じゃねえぞ? ちゃんと食えるやつだ」

 

「油、何」

 

「桂花油だよ。こっちじゃ珍しくねえ」

 

 桂花油――花の香りを油に移したもの。猫姉の目がわずかに細くなる。俺の舌には「花の香り」としか分からないのに、猫姉はもう“方向”を掴んでいる顔だ。

 

「……猫姉、後宮の匂いと似てますか」

 

「似てる“型”」猫姉は串の残りを口に放り込み、指を布で拭いた。「完全一致じゃない。けど、隠す匂いって、こういう“残る油”を芯にする」

 

 俺は喉の奥で息を飲んだ。里帰りのはずが、もう調査が始まっている。猫姉は食べたいと言っていたのに、結局こうなる。けれど不思議と嫌じゃない。猫姉が町の味を楽しみながら、事件の糸も掴む。その両方が同じ息でできる人だと、改めて思う。

 

「ねえ、次」猫姉が指を鳴らすように言った。「饅頭。蒸したやつ。肉はさっき食べたから、今度は甘いの」

 

「まだ食べるんですか」

 

「久しぶりに色々食べたいって言った」猫姉が当然のように返す。「あなた、反対?」

 

「いえ。むしろ……案内します」

 

 俺が先に歩き出すと、猫姉は一歩遅れてついてくる。背後には、気配を消した護衛が少し離れて歩いている。猫姉は気づいているはずなのに、振り返らない。振り返って面倒を増やさないのが猫姉だ。

 

 蒸籠の湯気が立つ店先で、猫姉は甘い饅頭をひとつ、塩気のある小菜をひとつ買った。甘いものだけだと飽きるから、という理屈らしい。饅頭を割ると、中から湯気とともに棗の香りが立った。

 

「これ、好きだったんですか」

 

「嫌いじゃない」猫姉は言って、一口だけ小さくかじる。次に、饅頭の皮を鼻に近づけ、ほんの一瞬嗅いだ。「……ここにも油が入ってる。香りを伸ばすため」

 

「普通の工夫ですよね」

 

「普通の工夫が、悪用される」猫姉は淡々と言った。「後宮だと、普通が普通じゃなくなる」

 

 その言葉が、町の喧噪の中で妙に重く響いた。俺は猫姉の横顔を見る。猫姉は饅頭をもう一口食べ、今度はちゃんと“おいしい”顔をした。ほんの一瞬、目尻が緩むだけ。でも俺には分かる。猫姉は食べている。調べるだけじゃなく、ちゃんと食べている。

 

「……猫姉」

 

「なに」

 

「菊下楼、寄ってもいいですか」

 

 言った瞬間、自分でも胸が熱くなるのが分かった。子どもの頃に見上げた看板。鍋の音。店の匂い。あそこが俺の“帰る”場所かどうかは分からない。けれど、通り過ぎるのは嫌だった。

 

 猫姉は少しだけ黙った。面倒そうな顔をしたまま、饅頭の残りを口に入れ、指を拭く。周りの人波が流れていく。護衛の気配も流れていく。その中で、猫姉がぽつりと言った。

 

「……最後に。腹が出来てから」

 

「はい」

 

「でも寄る前に、もう一つ食べる。肉串のタレ、気になる」猫姉が珍しく、少しだけ速足になった。「桂花油の屋台が珍しくないなら、香油屋も近い。ついでに見ておく」

 

「ついで、ですよね」

 

「ついで」猫姉は即答した。「私は食べに来ただけ。調べるのは、勝手に鼻がやる」

 

 俺は笑いそうになって、こらえた。猫姉が“勝手に鼻がやる”なら、俺は“勝手に手が動く”。町の人波の中で、猫姉が迷わず屋台へ向かう背中を見ながら、俺は思った。里帰りは甘い。けれど、甘い匂いほど疑わしい。だからこそ、ここに来た。菊下楼の看板は、まだ見えていない。でも、あの方向にあるのは分かる。腹も、心も、準備が整ったら――そこへ行く。

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