肉串の炭の匂いが指に残ったまま、俺たちは屋台の列から外れた。通りの真ん中は人の熱と油の湯気で鼻が詰まる。猫姉はそれが嫌なのかと思ったが、違った。彼女は歩きながら、何度も小さく鼻を鳴らしている。まるで、どこかに落としたものを探すみたいに。
「猫姉、菊下楼は最後って言いましたよね」
「言った。最後」
「じゃあ今は……食べ歩きですか」
「食べ歩き」猫姉は即答して、串の油を布で拭いた。「あと、探し物」
探し物、という言い方が猫姉らしかった。推理だとか調査だとか、そういう格好いい言葉を避ける。面倒が増えるから。でも、鼻先は正直だ。
角を曲がったところで、猫姉がぴたりと止まった。さっきの桂花油の甘さがまだ口に残っている俺でも分かるくらい、別の匂いが風に混ざっている。花の甘さではない。油の匂いでもない。甘いのに、乾いている。紙や布に染みつく類の匂いだ。
「……これ」
猫姉が独り言みたいに呟いた。
「分かるんですか」
「嗅ぎ慣れてる」猫姉は面倒そうに言い、もう一度だけ鼻を動かす。「昔、よく嗅いだ匂い。花街の匂いじゃなくて、花街の裏の匂い」
「裏……香を焚く方ですか」
「焚くのもあるけど、もっと手前。塗るやつ。染みるやつ。残るやつ」
猫姉が言い切って、迷いなく歩き出した。さっきまでの食べ歩きの気楽さが、ほんの少しだけ引き締まる。猫姉が“思い出した匂い”は、たぶん後宮の甘い匂いと繋がっている。
通りを二つ抜け、屋台が途切れるあたりまで来ると、匂いは薄くなるはずだった。けれど、猫姉は逆に確信したみたいに足を速めた。人が減るほど、匂いの筋が見えるのかもしれない。
「……どこへ行くんです」
「匂いがあると思う店」猫姉は短く答えた。「髪油屋か、香油屋か、練香屋。どれか。たぶん、髪油から近い」
「髪油?」
「花街の女が毎日使う。だから誤魔化しにも便利。誰が持ってても怪しくない」
なるほど、と俺は内心で唸った。料理でも同じだ。日常の材料ほど、混ぜられても気づかれにくい。砂糖や塩で毒を隠すみたいに。
猫姉が立ち止まったのは、暖簾の短い小さな店だった。瓶がずらりと並び、淡い花の匂いと油の匂いが混じっている。店の奥から、店主が顔を出した。猫姉は愛想を作らないが、妙に手慣れている口調で切り出す。
「髪油、見せて。匂いが軽いの」
「軽い? 女郎向けならいくらでもあるよ」
「女郎向けじゃない。残り香が少ないの。強くないのに、布に残るやつ」
店主が一瞬だけ眉を上げた。俺はその瞬間を見逃さなかった。猫姉の頼み方は変だ。でも、変だからこそ、店主の反応が出る。
「変わった注文だね」
「変わってるのは知ってる。だからここに来た」
猫姉は瓶のひとつを受け取り、蓋を開ける前に布越しに指で触った。油の粘りを確かめるみたいに。それから、ほんの一息だけ嗅いで、すぐ閉める。長く嗅がない。長く嗅ぐと鼻が慣れて、違いが曖昧になるからだ。
「これじゃない」
猫姉の断定は速い。店主が苦笑して、別の瓶を出す。三つ目の瓶で、猫姉の目がわずかに細くなった。
「……これ、近い」
「近い?」
「後宮で嗅いだ匂いに」猫姉は言いかけて、飲み込んだ。周りに聞かせる必要がないと判断したんだろう。代わりに、俺の方を見て小さく顎を動かす。嗅いでみろ、という合図だ。
俺は礼を言い、瓶を受け取って慎重に嗅いだ。花の甘さが先に来る。でも、その奥に、乾いた甘さがいる。肉串の桂花油とは違う。もっと“紙”っぽい甘さだ。熱を通していないのに、残る感じがする。
「……油というより、香が混ざってますね。焚く香の粉みたいな」
「そう」猫姉が即答した。「油に練り香を溶かしてる。普通はやらない。やるなら、理由がある」
店主が視線を逸らし、瓶を棚に戻そうとした。猫姉が先に言葉を差し込む。
「これ、誰が買う?」
「そりゃ、好みの客だよ」
「好みの客の名前は聞いてない。どういう“用”で買う匂い?」
店主は少し黙って、肩をすくめた。
「……香袋が苦手な客がいる。焚きしめるのが嫌だとかね。そういうのに“控えめに残す油”を作ることはある」
「控えめに残す、ね」
猫姉の声が、ほんの少しだけ冷えた。控えめに残す。つまり、主張しないのに消えない。後宮のあの甘い匂いと同じ方向だ。
「この油、他の店でも作ってる?」
「練香屋に頼めば、似たのはできる」
「どこの練香屋」
店主が口を開きかけて、閉じた。言いたくない顔だ。花街の人間は、危ない筋の話になると急に口が固くなる。猫姉は脅さない。その代わり、面倒を減らす方向で押す。
「言わなくていい。匂いで探すから」猫姉はさらっと言い、瓶を返した。「ただ、ひとつ。最近こういう油、増えた?」
店主が、溜息をついた。
「……増えたよ。妙に丁寧な男が来る。名乗らない。包みだけやたら綺麗。金払いはいい」
猫姉の目が、ほんの少しだけ動いた。俺も胸の奥がざわつく。包みが綺麗。紙と紐と封。後宮で見たやつに繋がる気配がする。
「猫姉、次は練香屋ですね」
「そう。匂いが“作られる所”に行く」
猫姉は店を出て、通りを見上げた。懐かしむというより、懐かしさの中から“異物”を拾い上げる顔だ。俺は、その背中を見て思った。里帰りってのは甘いだけじゃない。昔の匂いが、今の嘘を浮かび上がらせることもある。
「……菊下楼は本当に最後でいいんですか」
「最後」猫姉は言ってから、付け足した。「でも、帰り道に肉串。塩。今日は当たりだった」
結局そこに戻るのが猫姉で、俺は少しだけ安心した。事件の匂いは確かに濃い。でも、好物の匂いが残っている限り、猫姉は折れない。