薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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故郷 参

 練香屋へ向かう前に、猫姉は「油の方が先」と言って、花街の裏手にある香油屋へ俺を引っ張っていった。暖簾の色は派手じゃない。けれど、戸を開けた瞬間に分かる。ここは匂いを“見せる”店じゃない。匂いを“仕込む”店だ。木棚に小瓶がずらりと並び、花の甘さ、樹脂の重さ、乾いた草の青さが、薄い油の膜みたいに店内に漂っている。

 

「いらっしゃい」

「すみません、香油を見せてください」

「香油? 髪か肌か、それとも……別口かい」

 

 店主は年配の男で、指先が油で光っている。料理人の手が火と湯で荒れるのと逆で、この手は油で守られている感じがした。俺が一歩引いて名乗ろうとしたら、猫姉が先に口を出す。

 

「残り香が少ないのに、布に残るやつ。控えめで、でも消えない」

「矛盾した注文だな」

「矛盾してるのが必要な人がいる」

 

 店主の目が、ほんの少しだけ細くなった。“いる”と言った瞬間に、話が商売から別の場所へ半歩ずれたのが分かる。猫姉は気づかないふりをして、棚の瓶を指差した。

 

「この辺。花が前に出ないやつ」

「花が出ないなら薬油だ」

「薬でもいい。匂いが残る仕組みが知りたい」

 

 店主は溜息をつき、奥の棚から小さな瓶を二つ出した。一つはさらっとした油で、もう一つは少し粘りがある。猫姉が一息だけ嗅いで、首を振る。

 

「一つ目は軽い。すぐ飛ぶ」

「飛ぶのが普通だ。残ったら鬱陶しい」

「残らせたい人がいる。鬱陶しくならない範囲で」

 

 その言い方が、後宮の“甘い匂い”そのものだった。主張しないのに残る。輪郭がぼやけるのに、芯だけが居座る。猫姉は二つ目の瓶を嗅ぎ、今度は目を細めた。

 

「これ、近い」

「お客さん、鼻が利くね」

「利くから困る」

 

 俺も瓶を借り、礼を言ってから嗅いだ。最初に来るのは薄い甘さ。次に、乾いた樹脂っぽさが舌の奥に残る。料理の香りで言えば、仕上げに振る香りじゃない。底に沈ませる香りだ。

 

「……店主さん、これ、油に何を溶かしてます?」

「商売の話を料理人が聞くのかい」

「料理人だから分かることがあると思いまして。火を入れた時に香りがどう残るか、見当をつけたいんです」

 

 店主は俺を一度だけ見て、少しだけ笑った。

 

「溶かすのは、香の“止め”だ。白檀、安息香、それから少しの薬種。油は山茶油。香りを引き止める」

「止め……」

「香りは飛ぶ。飛ばないようにするには、飛ばないものと組ませる。強くするんじゃない。残し方を変える」

 

 猫姉が、そこで口を挟んだ。

 

「残し方を変えると、他の匂いが分からなくなる」

「鼻が疲れるからな」店主がさらっと言う。「香袋が苦手な客向けには、そういう“控えめ”を作ることもある」

 

 猫姉の視線が、店主の指先へ落ちた。油のついた指で、店主は瓶の縁を拭う。猫姉はその布――小さな晒し布――に残る匂いを、ほんの一瞬だけ嗅いだ。

 

「布に残る。紙にも残る」

「当たり前だろ」

「当たり前が、悪用される」

 

 俺は胸の奥で頷いた。濃い味で舌を疲れさせるのと同じ。強い香りを足すんじゃなく、“判断”を鈍らせる。後宮で起きたのは、まさにそれだ。

 

「猫姉、確認させてください」

「なに」

「この油、温めたらどうなります」

「店の中で火を使う気?」

「使いません。湯だけです」

 

 店主に断って、俺は店の隅の湯鉢を借りた。小皿に油を一滴落とし、湯気でゆっくり温める。料理で香りを見る時と同じだ。温度が上がれば、軽い香りは飛ぶ。残るのは重い香り――芯だ。

 

 油が温むと、花の気配がすっと消え、代わりに樹脂の甘さが前へ出た。舌ではなく鼻の奥に絡む甘さ。布や紙に残りやすい匂いだ。

 

「……残るのは、花じゃなくて止めの方ですね」

「そう」猫姉が短く言った。「つまり、上から別の香を被せても、芯は残る」

「芯が残れば、判断が鈍る」

「鼻が疲れる。匂いの輪郭が消える」

 

 店主が腕を組んだ。

 

「大層な話だな。客はただ、香が強いのが嫌なだけだ」

「強いのが嫌で、控えめに“残る”のが欲しい人がいる」猫姉は淡々と言う。「最近、増えた?」

「……増えた」

 

 言い切るまで、店主は少し迷った。迷うのは、商売の秘密じゃなく、相手筋が面倒だからだ。猫姉はそこを責めない。責めると黙るからだ。

 

「買い方は?」

「名乗らない。金払いはいい。包みが綺麗だ」

「包み、どんな」

「紙が厚い。湿気を弾く。紐は細い絹。封は蝋で、印が押してある」

 

 俺の脳裏に、帳面箱の周りで見た“整いすぎた”ものが浮かんだ。紙、紐、封。結び目。あれと同じ匂いがする。猫姉は店主の言葉を噛み砕くように黙って聞き、次に、すっと話を切り替えた。

 

「その油、少量でいい。試したい」

「客になるってことかい」

「客。あと、面倒を減らすための確認」

 

 店主は肩をすくめ、指先で小瓶を一つ選んだ。猫姉が望んだ“控えめに残る油”だ。店主はそれを小さな試料瓶に分け、蝋で封をする。蝋の印は、花の形――梅にも見えるし、桂花にも見える。猫姉の目が、そこに止まった。

 

「……その印、いつも?」

「後宮筋の客は、印を好む。受け渡しの目印だ」

「誰が受け渡す」

「そこまでは知らん。俺は油を渡すだけだ」

 

 猫姉はそれ以上踏み込まなかった。踏み込めば、相手は閉じる。代わりに、猫姉は試料瓶を袖にしまい、俺を見た。

 

「これでいい。型は掴めた」

「次は練香屋ですか」

「うん。油に止めを入れるなら、香の元は別にある。作る側を見ないと」

 

 店を出ると、夕方の風が少し冷たかった。花街の匂いはまだ甘い。けれど俺の鼻の奥には、さっきの“止め”の匂いが薄く残っている。控えめなのに消えない匂い――後宮の嘘を、ここまで運んでくる匂いだ。

 

「猫姉、あの試料、後宮で嗅いだのと同じですか」

「同じじゃない。近い」

「近い、で十分ですか」

「十分。完全一致は、物で取る」猫姉は面倒そうに言い、付け足した。「匂いは証拠じゃない。方向。証拠は紙と印と手」

 

 俺は頷いた。料理も同じだ。匂いは合図で、決め手は鍋の中身。猫姉の袖の中の小瓶が、やけに重く感じた。

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