香油屋でもらった試料瓶は、袖の奥で小さく鳴った気がした。猫姉は歩きながら何度も袖口に指を当て、封蝋の感触を確かめている。匂いそのものより、匂いが「どう残るか」を気にしている顔だ。俺の鼻の奥にも、さっき湯気で温めた時に前へ出てきた樹脂の甘さが、薄い膜みたいに残っている。控えめなのに消えない――後宮で鼻を鈍らせた、あの嫌な甘さと同じ“型”だ。
「猫姉、どこに練香屋があるんです」
「この辺」猫姉は迷いなく路地へ入った。「油に止めを入れるなら、香の元は別。油屋が自分で配合することもあるけど、今回のは“匂いの作り方”が上手すぎる。練香師の手」
路地の奥は、人通りが途切れて、代わりに布の匂いが濃くなった。染めの水、干した草、古い木。そこに、甘く重い樹脂の匂いが一本混じる。猫姉が足を止め、目だけで暖簾の文字を読む。
「……練彩堂」
看板は小さい。店構えも控えめだ。けれど戸を開けた瞬間、空気が違う。花の香りで飾る店じゃない。鼻の奥を“押さえる”香りが、静かに敷かれている。木棚には香袋、練香、香木の欠片。客が見て楽しむ品の顔をしているのに、奥の方からは作業場の粉っぽい匂いが漂っていた。
「いらっしゃいませ」
出てきたのは痩せた職人風の男だった。手が綺麗だ。火や油で誤魔化していない、粉と樹脂で鍛えた手つき。猫姉は礼もそこそこに、まっすぐ本題を置いた。
「控えめで、布に残る香が欲しい」
「香袋で? それとも油で?」
「両方。芯が油で、上に被せるのが香袋。最後に焚香で場を整える。そういう“型”のやつ」
職人の目が、ほんの少しだけ細くなった。今の言葉は、普通の客の注文じゃない。猫姉は気づいているはずなのに、わざと平然としている。
「……随分と詳しい方ですね」
「詳しくない。嗅ぎ慣れてるだけ」
「嗅ぎ慣れてる、ですか」
「面倒な匂いを嗅ぐ機会が多い」
職人はしばらく黙り、俺の方へ視線を移した。料理人が紛れ込んでいるのが気になったんだろう。俺は一歩前に出て、できるだけ角のない声を作った。
「突然すみません。俺は料理人です。匂いの“輪郭”を潰すやり方が、料理の味の作り方と似ている気がして……確認したくて来ました」
「輪郭を潰す、ね」
職人が小さく笑った。笑いというより、試すような息だった。
「料理人がその言葉を使うのは珍しい」
「味でも、匂いでも、強いものを足すだけだと“バレる”んです。輪郭が立つ。立たせないやり方があるはずだと」
猫姉が横から刺す。
「店主。香袋の構造を見せて。外からじゃ分からない」
「構造、ですか……」
職人の手が、棚の香袋に伸びかけて止まった。売り物の中身を見せろというのは、商売としては嫌がられて当然だ。猫姉は圧をかけない。代わりに、袖から香油屋の試料瓶を取り出して、机の上に置いた。封蝋の印が、梅花みたいに見えるやつだ。
「これと同じ“残り方”の香を、ここで作ってると思った」
職人の視線が封蝋に吸い寄せられ、すぐに逸れた。否定も肯定もしない。だが、目が動いた時点で答えは半分出ている。
「……それを、どこで」
「嗅いで」猫姉は一言で済ませた。「嗅げば分かる。あなたも」
職人は溜息をつき、店の奥へ「少し待ってください」とだけ言って引っ込んだ。戻ってきた時、手には売り物ではない布袋があった。外側は地味な麻布、縫い目が細かい。紐は細い絹で、結びが妙に整っている。
「これは、見本です。売り物じゃない」
「十分」猫姉が即答した。
職人は布袋を開けずに、まず指で縫い目を押した。
「香袋は、匂いを入れる袋じゃない。匂いを“出す速度”を作る道具です」
俺は思わず頷いた。料理の火加減と同じだ。強火で香りを立てて、弱火で芯を残す。袋の布は火だ。
「外布は麻。通りはいいが、匂いが暴れる」職人は続けた。「だから内側にもう一枚、薄い紙。油を弾く紙を挟む。匂いを一度受けて、少し遅らせる」
猫姉の目が鋭くなる。
「紙で遅らせる。湿気を弾く紙。……帳面に使われてたのと似た“手触り”」
職人は返さない。返さないが、否定もしない。
「中身は粉だけじゃない」職人は袋を少しだけ開け、俺たちに中を見せた。粉の中に、樹脂の欠片が混ざっている。さらに、粒の大きさが揃っていない。わざとだ。粒が違えば、溶ける速度も飛ぶ速度も違う。
「細かい粉が先に立つ。次に、粒。最後に樹脂の欠片が残る。匂いの層ができる」
「上・中・下」俺が口にすると、職人が少しだけ笑った。
「料理人らしい言い方ですね。そういうことです」
猫姉がすぐに核心へ踏み込む。
「輪郭潰しは、その層でやる?」
「層だけじゃ足りない」職人は首を振った。「輪郭を潰すなら、匂いを“繋ぐ”必要がある。強い匂いを別の強い匂いで殴ると輪郭が二つ立つ。だから繋ぎ香を入れる。柑橘の皮、茶の香、青い草。鼻の判断を滑らせる」
その瞬間、俺の背中が冷えた。滑らせる。舌の疲労と同じ。鼻に“判断”をさせない。
「つまり、こうですか」俺は頭の中で鍋を組み立てる。「芯になる油で“残り”を作って、香袋で層を作り、繋ぎ香で輪郭をぼかす。最後に焚香で場全体に同系統を薄く撒いて、鼻を慣れさせる」
「そこまで分かっているなら、何を確かめに来た」
職人の声が少しだけ硬い。猫姉が答える。
「その“繋ぎ香”が何か。後宮で嗅いだのは、花の甘さじゃない。乾いた甘さ。樹脂の甘さ。そこに、少し青い匂いが混じってた」
職人は黙った。しばらくして、棚の下から小さな木箱を取り出し、蓋を開けた。中には乾いた皮の欠片がある。柑橘の皮――ただし、甘い柑橘じゃない。苦みのある香りだ。
「陳皮です」職人が言った。「繋ぎに便利。花にも樹脂にも草にも寄せられる」
猫姉が短く鼻で息を吸い、すぐ吐いた。
「……あった。後宮の匂いに、この苦みがいた」
“いた”という言い方が、猫姉らしい。匂いを生き物みたいに扱う。俺も、料理の香りをそう扱うことがある。だから分かる。猫姉は今、確かに型を掴んだ。
「店主」猫姉が机を指で軽く叩く。「この袋、少し分けて。中身じゃなくてもいい。構造が分かる端切れでも」
「……何に使う」
「面倒を減らすため」猫姉は平然と言った。「誰かがこの型で、匂いを使ってる。使い方が悪い。止めたい」
職人の目が一瞬、揺れた。商売人の揺れじゃない。職人としての揺れだ。匂いは人を楽しませるためのものなのに、誰かがそれを“隠す道具”にしている。その不快さが、顔に出た。
「……分かりました」
職人は木箱から、陳皮の欠片をひとつ、樹脂の小片をひとつ、そして布袋の“内紙”と同じ紙片を小さく切って渡した。さらに、香袋の紐と同じ絹紐を、短く結んだ状態で。
「これは、見本です。香の配合を丸ごと渡す気はない」
「十分」猫姉は繰り返した。「匂いは証拠じゃない。方向。証拠は物」
俺は受け取った紙片を指で撫でた。つるりとして、湿気を弾く。料理場の湯気の中でも形を保つ紙だ。嫌な既視感が指先から上がってくる。
「猫姉、これ……後宮で帳面に絡んだのと同じ系統の紙です」
「うん」猫姉は淡々と頷く。「匂いを潰すのも、帳面を薄くするのも、紙が便利。便利だから悪用される」
職人がぽつりと言った。
「最近、この型を“指定”してくる客がいる。香袋を二重包みにしろ、封を蝋で統一しろ、と。香袋なんて本来、そこまで指定しない」
猫姉の目が、すっと細くなる。
「指定の理由は?」
「受け渡しの確認だろう」職人は苦々しげに言った。「間違いなく届いたと示すための印。……匂いで人を惑わせるくせに、受け渡しは几帳面だ」
俺は喉の奥で息を飲んだ。几帳面。紙。絹紐。蝋印。後宮で見た“整いすぎた”ものたちが、一本の線になりかけている。
猫姉は見本を袖へしまい、店主に一度だけ頭を下げた。
「助かった。面倒が減る」
「……減るといいな」職人は小さく返した。「匂いは、楽しむためのものだ。人を鈍らせるためじゃない」
店を出ると、外の空気が急に軽く感じた。花街の匂いは相変わらず賑やかだが、今はその賑やかさの中に、確かに“型”が見える。芯の油、層の香袋、輪郭を滑らせる繋ぎ香、場を均す焚香。猫姉が求めていた“輪郭潰し”は、ただの誤魔化しじゃない。手順だった。
「猫姉、これで確定ですか」
「確定」猫姉は短く言った。「少なくとも、後宮の匂いは偶然じゃない。作ってる。作れる人が関わってる」
猫姉が歩き出し、俺もついていく。菊下楼は最後――その約束はまだ先だ。けれど、最後に行くための腹は、もう別の意味で出来てきた。匂いの嘘を剥がす腹だ。