練彩堂を出たあと、猫姉は袖の中の小袋を指で押して確かめていた。紙片のつるりとした感触、絹紐の結び目、陳皮と樹脂の欠片。どれも小さいのに、妙に重い。匂いの手順が「偶然じゃない」と分かった瞬間から、町の音が少し遠くなった気がする。花街は賑やかなのに、賑やかさの下に、誰かが息をひそめている層がある。
「次はどこです」
「包み」猫姉が短く言った。「紙屋。蝋。紐。受け渡しが几帳面なら、どこかに癖が出る」
俺は頷いて歩幅を合わせた。料理でも同じだ。手間をかける人間は、必ず同じ場所で同じ癖を出す。癖は誇りでもあり、弱点にもなる。俺たちが拾おうとしているのは、まさにその弱点だ。
紙屋は表通りの端にあった。店先に積まれた反物みたいに紙束が並び、湿気を避けるために高く組んである。店主は目尻の皺が深い男で、猫姉の顔を見るなり一瞬だけ固まった。猫姉の方は気づかないふりをして、いつも通り面倒そうに口を開く。
「湿気を弾く厚紙。匂いが移りやすいの。油を吸わないやつ」
「……紙は、紙だよ」
「紙にも種類がある」
「あるけどね、そういうのは……」
店主の視線が、俺たちの背後をちらりと見た。護衛は相変わらず気配が薄い。なら、見ているのは護衛じゃない。通りを歩く人間の中に、店主が気にする“誰か”がいる。
「店主さん」俺はできるだけ柔らかい声を出した。「料理場で使う紙を探してるんです。湯気に負けないやつ。油も弾くやつ。匂いが移らないと困る時があって」
「料理場?」
「はい。後で菊下楼にも寄る予定で」
菊下楼の名を出した瞬間、店主の顔がほんの少し緩んだ。だが、それは安心ではなく、いっそう困った顔への準備みたいな緩みだった。
「……菊下楼なら、店の者に聞きな」
「あなたが一番早い」猫姉がぶった切った。「ここで扱ってる。紙の手触りで分かる」
店主は笑った。笑ったが、目が笑っていない。
「嬢ちゃん、嗅ぐのが得意でも、紙は嗅いでも分からんよ」
「触れば分かる」
「……今日は入ってない」
「嘘」
猫姉の「嘘」は軽い。責めるためじゃなく、確認のための「嘘」だ。だから普通なら店主も軽く返して終わるはずだった。なのに店主は、笑いを消して、声を落とした。
「……やめときな。そういう“厚紙”の話は」
猫姉の眉がわずかに動く。俺の背中にも冷たいものが走った。口封じの脅しじゃない。脅しなら言葉がある。これは言葉が引っ込む感じだ。
「誰かに困る?」猫姉が聞く。
「困るってほどじゃない。ただ……喋らない方が、面倒がない」
「面倒を減らすために聞いてる」
「俺の面倒が増えるんだよ」
その瞬間、店の空気が固まった。店主は奥の紙束に手を伸ばしかけて、引っ込めた。見せれば終わる話なのに、見せない。見せない方が安全だと、体が覚えている。
猫姉が一歩踏み込もうとした時、通りで鈴が鳴った。荷車が通る音だ。俺は反射でそちらを見た。荷車を押していたのは若い男で、丁寧に荷を包み、蝋で封をしている。蝋の印がちらりと見えた。梅花みたいな形。猫姉が香油屋でもらったのと、同じ“型”だ。
猫姉も見た。店主も見た。見た瞬間に店主の顔色が変わり、急に忙しそうに紙束を整え始めた。
「今日はこれ以上は無理だ」
「今の荷車、どこへ」猫姉が低く聞く。
「知らん」
「見た」
「見ただけだ。見ただけなら罪じゃないだろ」
猫姉は一瞬だけ口を閉じた。怒りじゃない。飲み込んだ。怒れば黙る。黙らせるんじゃなく、黙っている理由を拾うのが猫姉のやり方だ。
店を出て、二つ目の店――蝋を扱う店へ向かった。ここも表通りだ。暖簾をくぐると、甘い蜜蝋の匂いが鼻を包む。職人は若く、手の甲に小さな火傷の跡がある。俺は妙に親近感を覚えた。熱い仕事の手だ。
「封蝋、印付きのを見たい」猫姉が言う。
「印? 家紋の?」
「花の形。梅に見えるやつ」
「ああ……」
若い職人の返事が途中で止まった。視線が揺れて、口元の笑いが消える。さっきの紙屋と同じだ。誰かが“その印”を話題にした瞬間、町の人間の喉が締まる。
「最近、そういう注文が増えた?」猫姉が続ける。
「……普通だよ。花街じゃ、綺麗に包みたがる客もいる」
「普通なら、見せて」
「見せられない」
断り方が、言い訳じゃない。規則でもない。自分の身を守る断り方だ。猫姉が鼻で笑った。
「脅された?」
「脅されてない」
「じゃあ、なに」
「……喋ったら面倒になるって、分かるだろ」
猫姉が黙った。俺は胸の奥で舌打ちしたくなった。目の前にあるのに、触らせてもらえない。料理で言えば、鍋の蓋を開ける直前に火を消されるみたいな感じだ。
店を出ると、猫姉は路地の壁に背を預け、ひと息だけ吐いた。ため息じゃない。鼻を休ませる息だ。俺は周りを見た。人は多い。けれど、さっきから時々、同じ方向に“丁寧な荷”が流れている。蝋印、厚紙、絹紐。受け渡しが几帳面な匂いが、町の中を細い線になって走っている。
「猫姉、口封じじゃないですね」
「うん。沈黙の圧」猫姉が言った。「喋ったら困る、じゃなくて、喋ると“面倒が来る”って体が知ってる」
「誰が圧をかけてるんです」
「分からない。でも、分かることはある」猫姉は袖から香油屋の試料瓶を出し、蝋印を指でなぞった。「印が見える場所で黙る。印が通る時に黙る。つまり圧は、暴力じゃなくて“取引の筋”にある」
俺は頷いた。筋。花街には筋がある。料理界にも筋がある。筋を外せば、材料は手に入らない。火は通せても、客が消える。そういう圧だ。
「じゃあ、店に聞いても無駄ですか」
「無駄じゃない。黙ったってことが情報」猫姉は淡々と言う。「この町の商人は、ただの噂でここまで黙らない。誰かが“面倒を現実にする手”を持ってる」
俺は護衛の気配を探した。遠い。けれど、確かにいる。後宮の力も、花街の力も、ここでは同じように“空気”になる。
「猫姉、俺、こういう時の手は一つしか知らないです」
「なに」
「飯です。喋らないなら、喋りたくなる状況を作る。例えば、菊下楼で。店の人間なら、商人より筋が強いかもしれません」
猫姉がこちらを見た。面倒そうな顔のまま、目だけが少しだけ笑う。
「……最後に行くって言ったのに」
「約束は守ります。最後に、ちゃんと行きます。でも、最後まで黙られたら、腹が立つ」
「腹が立つのは分かる」猫姉は淡々と頷いた。「じゃあ、今日は肉串。塩。頭が固くなると鼻が鈍る」
「結局それですか」
「結局それ。食べたいのも本当」猫姉は言い切った。「面倒な匂いは、腹が減る」
俺は苦笑して、屋台の煙の方を見た。懐かしい町なのに、今日は妙に冷える。暴力はない。脅しもない。なのに、店の口が閉じる。それが一番嫌なやつだ。誰かがこの町の空気を握っていて、匂いの筋を作り、黙るべきところで黙らせている。
猫姉の袖の中で、試料瓶の蝋印が小さく硬い。俺たちは今、沈黙そのものを追っている。匂いを追うより厄介で、でも、料理人としては分かる。旨い出汁ほど、声高に主張しない。黙って残る。……あの匂いみたいに。