白鈴の裏口へ張り込む――その前に、猫姉は一度だけ俺の袖をつまんで引き止めた。袖の奥で、香油屋の試料瓶と練香屋でもらった紙片がこすれる。あれだけ商人の口が閉じるなら、こちらは口じゃなく鼻と手で殴るしかない、という顔だ。
「猫姉、今日も“最後に”って言います?」
「言う」猫姉は淡々と頷いた。「菊下楼は最後。……でも、張り込みの前に型を確かめたい。あなたの得意分野で」
得意分野、と言われて胸の奥が熱くなった。俺はうなずき、懐かしい看板の方へ足を向けた。菊下楼の前に立つと、油と湯気と古い木の匂いがいっぺんに押し寄せる。胸が勝手にほどけるのに、猫姉は相変わらず面倒そうに暖簾をくぐる。
「いらっしゃ……あっ」
「……昴星?」
「すみません、少しだけ厨房をお借りできますか。今日の俺は“客”じゃなくて、用があって」
顔見知りの者たちが一瞬ざわめく。俺の旅の姿を見て、何かを聞きたそうな目をする。でも、猫姉が横で仏頂面のまま立っているのを見て、皆が察したらしい。「事情あり」と。料理場の人間は、余計な詮索をしない優しさがある。
「短くだぞ」料理長が顎で奥を示した。「火は貸す。騒ぎは起こすな」
「ありがとうございます」
厨房へ入ると、音が変わる。包丁の乾いた音、湯が沸く音、皿が触れる音。俺の体が勝手に真ん中へ戻ろうとするのが分かった。猫姉は壁際に立ち、腕を組んだまま俺を見る。料理のことは詳しくないはずなのに、見方だけは正確だ。余計な動きがあればすぐ分かる目をしている。
「猫姉、今日の実演は“味”じゃない。香りの話です」
「分かってる。私が食べたいから来たわけじゃない……と言いたいところだけど、ついでに一口くらいは許す」
「そこは素直で助かります」
俺はまず、淡い湯を作った。鶏ガラを強く煮立てない。香りの輪郭を立てすぎると、今日の目的がぶれるからだ。生姜と葱も最低限。清く、薄く、芯だけ残す。次に、小皿へ山茶油を少し落とし、火から外した鍋の余熱で温める。油は熱で香りを抱える。抱えた香りは、控えめに残る。
「今の段階だと、普通の湯ですよね」
「普通に見えるのが大事です。普通の器に、普通の湯。ここに“芯”だけを仕込む」
練香屋でもらった陳皮の欠片を指で割り、油に一瞬触れさせる。入れない。触れさせるだけ。香りを油に移し、苦みの輪郭を薄く滑らせる。さらに、厨房にある香辛料――桂皮をほんの小さく折って、同じように油へ近づける。これも長く入れない。香りが主張しない程度に、底へ沈む甘さだけを拾う。
猫姉が目を細めた。
「……やり方が、香袋と似てる」
「似せます。実際、同じ考え方です。強く殴るんじゃない。判断を滑らせる」
俺は茶袋の布を借りて、小さな袋を作った。中に入れるのは、細かく砕いた陳皮と、粒の大きさを揃えない香辛料。粉が先に立ち、粒が後から来て、欠片が最後に残る。練香屋の職人が言っていた“層”を、料理で再現する。
「猫姉、嗅いでみてください。袋を開けないで」
「……面倒」
「面倒でも。ここが型です」
猫姉は袋を指でつまみ、ほんの一息だけ吸った。すぐに息を吐く。長く嗅がない。鼻の使い方が職人だ。
「粉が先に来て、後から苦み。最後に甘いのが残る。……陳皮の苦みが“繋ぎ”になってる」
その言葉に、俺の背中が少し軽くなった。狙いは外れていない。
俺は淡い湯を椀に注ぎ、香り袋を短く沈めて引き上げる。煮出さない。煮出せば輪郭が立つ。次に、さっき仕込んだ油を椀の縁に一滴だけ落とした。湯の表面に油膜が広がり、香りを抱いて逃がさなくなる。最後に、蓋付きの椀を用意して、ふわりと蓋をする。蓋は香りの居場所を作る。外へ逃げるはずの匂いが、椀の中で循環し、鼻を疲れさせる形になる。
「……これ、後宮の蓋付き椀と同じだ」猫姉がぽつりと言った。
「分かりますか」
「分かる。蓋を開けた瞬間に“上の香り”が全部来て、下の匂いが分からなくなる。しかも芯だけ残る。嫌な残り方」
俺はもう一つ、何もしていない椀を用意した。同じ湯、同じ温度、同じ蓋。並べると、ただの湯にしか見えない。だからこそ意味がある。
「猫姉、右が普通。左が“型”。開けずに嗅いで、次に開けて嗅いでください」
「面倒な遊び」
「遊びじゃない。証明です」
猫姉はまず普通の方を嗅いだ。次に型の方を嗅ぐ。眉がほんの少しだけ動く。そして蓋を開けた瞬間、猫姉の目がはっきり細くなった。
「……これだ。輪郭が滑ってる」
「どの部分が?」
「花じゃない甘さが底にいる。樹脂っぽい。そこに陳皮の苦みが橋を架けてる。鼻が“判断”を迷う。迷ってるうちに、下の匂いが見えなくなる」
猫姉は言いながら、袖から香油屋の試料瓶を取り出した。封蝋の上を指でなぞり、一瞬だけ蓋を開けて嗅ぐ。それから俺の椀の蓋を閉めたまま嗅ぐ。比べて、短く言い切った。
「型は一致。匂いの材料は違っても、作り方が同じ」
その言葉が、料理場の音の中で妙に響いた。俺は胸の奥で息を吐いた。匂いは証拠じゃない――猫姉の言う通りだ。でも“型”が一致すれば、次の物証が刺さる。紙片、絹紐、蝋印、受け渡し場所。全部が一本の筋になる。
俺が椀を猫姉の前へ押し出すと、猫姉は一口だけ口に含んだ。表情は変わらないのに、喉がわずかに動く。味より香りを読んでいる。
「……料理としては、普通」
「今日は普通でいいんです。普通の器に、普通の湯。そこへ“残る香り”を仕込めるって見せたかった」
「十分見えた。面倒が増えるほど見えた」
猫姉が椀を置き、袖の中の紙片と紐を確かめるみたいに指を動かした。
「これで、白鈴に行く理由が固まった。商人が黙るのは、匂いの手順を知ってるからじゃない。手順が“届く”筋に触れてるから。届く筋を押さえれば、黙ってても物は取れる」
「俺も行きます。匂いの層は俺が見ます。猫姉の鼻だけに任せたくない」
「任せたくないって言い方が面倒。……でも、助かる」
料理長がこちらをちらりと見て、何も言わずに背を向けた。聞かなかったことにしてくれたんだ。俺は深く頭を下げ、猫姉と一緒に厨房を出た。菊下楼は最後、の約束は守った形になる。けれど、ここで一つだけ確かめたかったことがある。
「猫姉、これ……怖い匂いですか」
「怖いというより、嫌」猫姉は淡々と言った。「人の感覚を鈍らせる匂いは、だいたい碌でもない用途に回る」
夕方の花街へ戻ると、風が少し冷たい。白鈴の路地の先が、もう見える気がした。匂いの嘘は、料理でも作れる。その事実が、逆に不穏だった。作れるからこそ、誰かが作った。几帳面な包みで、誰かが運んだ。あとは、その“誰か”の手を掴むだけだ。