薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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故郷 八

 白鈴の裏手に着いたのは、日が落ちきる少し前だった。花街の夕暮れは、匂いが一番ややこしい。昼の油と夜の香が重なって、鼻が勝手に疲れようとする。猫姉はそれを見越したみたいに、路地の影へ俺を押し込んだ。物置の扉が斜めに見える位置、通りの流れから半歩外れた場所だ。ここなら、見える。でも目立たない。

 

「猫姉、本当にここで合ってるんですね」

 

「白鈴の裏、井戸の向こう、物置。あの子の言った通り」猫姉は淡々としているが、指先が小さく動いていた。袖の中の試料瓶と紙片を確かめる癖だ。「走らない。声も出さない。顔を覚えないじゃなくて、覚えられないようにする」

 

「……捕まえるんじゃなくて、証拠を取る」

 

「そう。人は消える。物は残る」

 

 まもなく、昨日見たのと同じ小さな子どもが来た。抱えている包みは二つ。厚い紙にくるまれて、細い絹紐で結ばれている。結び目が整っているのが、遠目でも分かる。子どもは周りを見ない。見ないように教えられている動きだった。物置の前で膝をつき、扉の隙間へ包みを滑り込ませる。最後に、戸板の端を指で二度叩いた。合図だ。叩き方が、料理場で鍋の蓋を確かめるみたいに無駄がない。

 

「叩いた」俺が囁くと、猫姉が目だけで頷いた。「合図。次は受け取り」

 

 子どもが去って少ししてから、通りの空気が変わった。花街の喧騒は変わらないのに、物置の前だけが一瞬静かになる。人の流れが、ほんのわずか避ける。沈黙の圧ってのは、こういう形で現れるのかもしれない。

 

 受け取り役は、いかにも茶屋の用事で来たような格好だった。肩に荷を担ぐ紐、手には提灯。顔は見えた。見えたのに、印象が薄い。眉も口も“どこにでもいる”ように整っていて、逆に不気味だった。男は物置の前で立ち止まると、提灯を少しだけ傾けた。光が、扉の隙間へ落ちる。中を覗くためじゃない。蝋印の位置を見るためだ。

 

「……几帳面だ」俺が息を殺すと、猫姉が小さく返した。「几帳面じゃないと困る筋。だから商人が黙る」

 

 男は包みを取り出し、紐を解かない。解かずに、蝋印だけを指でなぞる。蝋の縁を爪で軽く弾き、硬さを確かめるような仕草までした。偽物を嫌う。受け渡しの確認が最優先。次に、男は懐から薄い紙を出し、木片のような板に当てて何か書いた。控えだ。書き終えると紙を二つに裂き、片方を包みの下へ差し込み、もう片方は自分の袖へ入れる。控えを二重に残すやり方。まるで料理の仕込み帳を、厨房用と店用で分けるみたいに。

 

 男が包みを一つだけ、わざと物置に戻した。残す包みを選んだ。蝋印が同じに見えるのに、選別している。つまり“印だけではない条件”がある。

 

「猫姉、印以外の条件……紙の手触りか、紐の結び癖か」

 

「たぶん中身」猫姉が囁いた。「匂い。量。重さ。あるいは、油の染み方。触れば分かる」

 

 男は物置を閉め、提灯を戻して歩き出した。追うべきか迷ったのは一瞬だけだ。猫姉が先に動いた。影から影へ、路地の角を一つ遅れて曲がる。俺もついていく。追跡というより、湯気の流れを読むみたいな追い方だった。

 

 けれど男は、追われることを前提に動いていた。角を曲がるたびに、必ず人の多い場所を選ぶ。串焼き屋の煙、香袋売りの甘さ、髪油屋の花の匂い。匂いの層が厚い場所へ、わざと入っていく。鼻を鈍らせるための道選びだ。

 

「……くそ、上手い」俺が思わず漏らすと、猫姉が低く言った。「匂いで輪郭を潰してる。道でやるな」

 

 次の瞬間、男は人波の中へ溶けた。溶けた、というより“ほどけた”。布の色が一度視界から消え、次に見えた時には別の上着を羽織っていた。荷を担ぐ紐も外している。誰かとすれ違った一拍の間に、役目を着替えた。追う側の目は“同じ人”を探すが、向こうは“同じ役目”を捨てる。料理で言えば、味の芯を残したまま上の香りだけを入れ替えるみたいな嫌らしさだった。

 

「消えた」俺が呟くと、猫姉は舌打ちを飲み込んだような顔で立ち止まった。「人は消える。予想通り」

 

「でも、物は残る」

 

「うん。戻る」

 

 白鈴の裏へ戻る道は、行きより静かに感じた。戻った物置の扉は、さっきより少しだけ開きが悪い。猫姉が指で縁をなぞり、躊躇なく隙間へ手を入れた。中から出てきたのは、男が残した包みだ。厚い紙、細い絹紐、梅花みたいな蝋印。さらに、紙片が一枚挟まっていた。裂かれた控えの片割れだ。

 

「猫姉、控え!」

 

「声が大きい」猫姉が面倒そうに言いながら、紙片を広げた。灯りの下で見える文字は少ない。けれど、少ないからこそ“筋”が見える。日時の印、数量の記号、そして“白鈴裏”を示す短い符号。受け渡しの場所と時刻が、控えとして残っている。商人が喋らなくても、紙は喋る。

 

 俺は包みの紐を見た。結び目が、練香屋でもらった見本と同じ癖で締まっている。引く方向が決まっていて、結びがほどけにくい。さらに、紙の表面はつるりとして湿気を弾く。猫姉が指で撫で、短く言った。

 

「紙の型も一致。紐も一致。蝋印も一致。これで“手順”が道具になった」

 

「本人は消えましたけど、手口は割れましたね」俺が言うと、猫姉は紙片を折り、袖へしまった。「割れた。あとは、これを後宮で刺す。『同じ包材が回ってる』ってだけで、香担当の顔色は変わる」

 

「……でも、誰が受け取り役かはまだ」

 

「だから沈黙の圧」猫姉が淡々と続けた。「本人を捕まえるより、周りが“黙る理由”を壊す方が早い。控えがあれば、筋が切れるのを商人が恐れる。恐れるなら、次は守りに入る。守りに入れば、ミスが出る」

 

 俺は包みの蝋印をもう一度見た。梅花みたいな形。綺麗すぎる印。あれが通るたびに町の口が閉じる。暴力じゃないのに、確かに圧がある。料理で言えば、塩じゃなく出汁で締める感じだ。穏やかで、逃げ道がなくて、長く残る。

 

「猫姉、次はどうします」

 

「次は……白鈴」猫姉が物置の扉を静かに戻した。「この茶屋が“ただの置き場”じゃないなら、どこかに帳がある。控えの本体がある。そこを嗅ぐ」

 

 夕闇の中で、白鈴の提灯が揺れた。何も起きていない顔をしているのに、裏で匂いの筋が動いている。俺は拳を軽く握り、油と香の残りを鼻の奥で確かめた。捕まえられなくてもいい。道具は掴んだ。あとは、この道具を使って“喋らない世界”に穴を開けるだけだ。

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