白鈴の裏から戻った夜、俺たちは宿の小さな部屋で向かい合った。灯りは一つ、窓は半分閉めて、外の喧騒が薄い布みたいに漂ってくる。猫姉は荷をほどくと、布を敷いて、その上に証拠を一つずつ置き始めた。香油屋の試料瓶、練香屋でもらった陳皮と樹脂の欠片、内紙の端切れ、短く結ばれた絹紐。最後に、白鈴の物置で拾った控えの片割れと、厚い包材の切れ端。並べ方が几帳面で、逆に不気味なくらいだった。
「……こうして見ると、少ないな」
「少ないからいい」猫姉は淡々と言った。「少ないほど嘘が混じらない」
「嘘、ですか」
「言い訳の嘘。推理の嘘。都合のいい偶然」猫姉は控えの紙片を指先で押さえた。「これだけは嘘をつかない。書いたやつの癖が出る」
俺は紙片の端を覗き込んだ。文字は短い。日時らしき数字、数量の記号、場所を示す符丁。花街の商人たちは口を閉ざしたくせに、帳尻だけは残す。怖いのは暴力じゃなくて、こういう「生活の記録」が黙って世界を動かすことだ。
「猫姉、整理しましょう。壬氏さまに伝える順番を」
「うん」猫姉は頷くと、指を折った。「一、後宮の“嫌な残り香”は偶然じゃない。油を芯にして、香袋で層を作り、繋ぎ香で輪郭を滑らせ、焚香で場を均す。これが型」
「型の証明は、菊下楼で俺が実演したやつですね」俺が言うと、猫姉は面倒そうに目を細めた。
「あなたの湯は普通だった。普通だから証明になった」
「褒めてます?」
「半分」
猫姉は次の指を折る。
「二、花街の商人が急に喋らなくなる“沈黙の圧”がある。脅しじゃなくて、取引の筋で首を絞るタイプ。喋ると次の仕事が消える」
「紙屋も蝋の職人も、あの印の話をした瞬間に喉が固まった」
「三、末端の末端――運びの子どもから、置き場を聞き出した。白鈴の裏、井戸の向こう、物置。夕方に置く。取りに来る人の顔は見ない。蝋印だけで箱に入れる」
猫姉は控えの紙片を軽く叩いて、四本目の指を折る。
「四、張り込みで受け取り役の手口が割れた。蝋印で真偽確認、控えを二重に残す、包みを選別して一部を残す。追えば匂いの層が厚い場所に逃げ、役目を着替えて消える。本人は消えた。でも――」
猫姉の指が、包材へ移る。
「五、残ったのがこれ。厚紙、絹紐、蝋印、控えの片割れ。物証」
俺は絹紐の結び目をつまんだ。練香屋の見本と同じ締め方で、引く方向に癖がある。紙はつるりとして湿気を弾き、油を吸いにくい。蝋印は梅花みたいに整っている。猫姉の嗅覚がなくても、これは「同じ手」が触っていると分かる類の整い方だ。
「猫姉、俺から一つ補足を。受け取り役が包みを選別した理由、匂いか重さか、油の染み方だと思います。触って確かめてた。印だけじゃない」
「それも言う」猫姉は淡々と頷いた。「“印だけでは通らない”って事実は大事。内部の確認手順がある」
猫姉は一度黙り、試料瓶の封蝋を指でなぞった。灯りが小さく揺れて、蝋の縁に影が落ちる。
「……で、ここからが肝。花街で作れる型が、後宮に届いてる。届かせてる筋がある。筋を握ってるのは、香担当か、焚香の手配に関わるやつか、包材の受け渡しに関わるやつ」
「つまり、後宮側で“届く場所”が必要になる」
「そう」猫姉は短く言った。「だから戻る」
*
翌朝、俺たちは町を出る前に菊下楼へ寄った。俺の胸の奥は勝手に浮ついていたが、猫姉は「腹が減る」としか言わない顔で、肉粥を啜った。料理長は何も聞かなかった。ただ、俺の手元と、猫姉の袖の重さを見て、静かに頷いた気がした。
「昴星、厄介ごとか」
「……はい。でも、俺たちで片をつけます」
「片はつかんでも、油断はするな。包丁が切れるのは食材だけじゃない」
その言葉が、町の匂いよりも長く残った。
*
後宮へ戻った俺たちは、壬氏さまに呼ばれ、いつもの静かな部屋へ通された。高順さまもいる。猫姉はいつも通り、礼儀を守っているようで守っていない絶妙な顔で、席に着いた。
「戻ったか」壬氏さまの声は落ち着いていたが、目は鋭い。「成果は?」
「あります」猫姉が即答した。「ただし犯人は連れてきてません。人は消えるので」
「開口一番それか」壬氏さまが苦笑し、高順さまが小さく咳払いをした。
猫姉は布を広げ、証拠を並べた。控えの紙片、包材の切れ端、絹紐、蝋印の見本、香油の試料瓶、練香の材料片。俺は横で、猫姉の説明に合わせて補足する役に徹した。助手じゃない。俺の目と鼻で、猫姉の推理が“現物”になる。
「まず“型”です」猫姉が言った。「油を芯にして残り香を作り、香袋で層を作り、繋ぎ香で輪郭を滑らせ、焚香で場を均す。後宮の残り香は、この型で作れます」
「作れる、で終わるなら誰でも言える」壬氏さまが指を組む。
「作った証拠がこれ」猫姉は控えの紙片を示した。「花街の白鈴の裏で受け渡しが行われ、包材と控えが残った。商人が急に喋らなくなる圧も確認。脅しではなく、筋を切られる圧」
俺は絹紐を指で示した。
「この結び、一定の癖があります。締める方向が決まっていて、ほどけにくい。練香屋の見本と同じ。紙も防湿処理が同系統で、油を弾きます。蝋印も統一されている。受け取り役は蝋印だけでなく、触って選別していました。内部に確認手順があるはずです」
壬氏さまの目が、蝋印に止まった。高順さまが一歩前に出て、控えの符丁を覗き込む。
「……場所と時刻がある。これだけで動けますな」
「動ける」猫姉が頷く。「ただし、花街側で受け取り役は消えました。役目を着替えて人混みに溶ける。だから後宮内で刺す方が早い。包材と確認手順を突けば、香担当か焚香の手配にいる誰かが必ず反応する」
壬氏さまは少しだけ黙り、それから猫姉を見る目を柔らかくした。柔らかいのに、どこか悔しそうなのが厄介だ。
「……よく持ち帰った。これでこちらも動ける」
「動けるなら面倒が減る」猫姉が淡々と言う。
「相変わらずだな」
「相変わらずで結構です」
高順さまが資料を整えながら、俺に視線を向けた。
「昴星殿、菊下楼でも何か確かめたと聞きましたが」
「はい。匂いの型は料理の手順でも再現できます。だからこそ、後宮で“料理や香の動線”を抑える必要があると感じました。俺も、猫姉の助けになれるはずです」
壬氏さまが小さく頷いた。
「……では、次は後宮で検証だ。白鈴の筋と、こちらの香の手配を照合する。猫猫、お前は――」
「面倒なので、やります」猫姉が先に言った。
高順さまが呆れた顔で息を吐き、壬氏さまは笑いそうなのを堪えたように口元を押さえた。俺は、そのやり取りを見て、ようやく胸の奥の緊張が少しだけほどけた。故郷の匂いは懐かしくて、同時に厄介だった。でも、持ち帰れた。嘘の匂いを、物の形にして。
後宮の廊下へ出ると、香が薄く焚かれていた。いつもなら気にならない程度の匂いが、今日はやけに輪郭を持って見える。猫姉も同じことを感じたのか、鼻先がわずかに動いた。
「……帰ってきた」
「はい。ここからが本番ですね、猫姉」
「面倒」猫姉は言って、でも歩みは止めなかった。