主賓の部屋の空気が、明らかに変わっていた。
さっきまで漂っていた、重く澱んだ気配がない。
代わりにあるのは、静かな落ち着きだ。
猫姉は、いつも通りの顔で部屋に入った。
だが、目だけは違う。
――全部、見る目だ。
「失礼します」
そう言って、自然な動きで主賓の傍へ行く。
脈。
呼吸。
肌の温度。
猫姉は、指先だけで確認していく。
医官が横で見ているが、口は挟まない。
「……脈、安定してますね」
猫姉が言うと、医官が目を見開いた。
「え?
つい先ほどまでは――」
「速すぎもしないし、
弱くもない」
淡々とした声。
「ちゃんと、戻ってきてる」
主賓自身も、気づいているらしい。
胸に手を当て、ゆっくりと息を吸っている。
「不思議だ……」
低く、落ち着いた声。
「さっきまで、
体の芯が冷えていたのに」
猫姉は、頷いた。
「今は、
無理に温めてる感じじゃない」
そこで、一瞬だけ視線がこちらに向く。
俺は、思わず背筋を伸ばした。
「……自然に、戻ってる」
それが、猫姉の結論だった。
周囲が、ざわつく。
「薬を変えたわけでもないのに……」
「では、原因は……」
「本当に、食事だけで……?」
猫姉は、首を横に振る。
「“だけ”じゃないです」
言葉を選びながら、続ける。
「薬は、ちゃんと効いてました。
ただ――」
一拍。
「体が、
それを受け取れる状態じゃなかった」
医官が、はっとする。
「……なるほど」
猫姉は、そこで初めて、少しだけ表情を緩めた。
そして、俺の方を見る。
その目が、
どこか嬉しそうだった。
「料理のことは、
正直よく分からないけど」
小さく、肩をすくめる。
「……マオ、
あんた、相当やってるでしょ」
その言葉に、
胸の奥が、少し熱くなる。
「前はね」
猫姉は、続けた。
「“美味しい”とか、
“すごい”とか、
そういう印象だった」
それを覚えていること自体が、
少し意外だった。
「でも、今のは――」
言葉を探し、
最後にこう言った。
「ちゃんと、
人の体を見てる料理」
第三者たちが、顔を見合わせる。
「料理で、そこまで……」
「医官でも、難しい判断だぞ……」
「若いのに……」
猫姉は、少し照れたように鼻を鳴らした。
「本人は、
たぶん自覚してないと思うけど」
俺は、思わず視線を逸らした。
自覚、
と言われると、弱い。
猫姉は、もう一度主賓の様子を確認する。
「このまま、
同じ方向の食事を続ければ」
はっきりとした声。
「回復は、
確実です」
その断言に、
部屋の空気が、完全に落ち着いた。
主賓が、ゆっくりと頷く。
「……感謝する」
誰に、とは言わなかった。
だが、それで十分だった。
猫姉は、一礼して部屋を出る。
廊下に出た瞬間、
少しだけ声の調子が変わった。
「ふぅ……」
「……大丈夫?」
「大丈夫大丈夫」
軽く手を振る。
「でも、
ほんとに驚いた」
俺を見る。
「マオが、
ここまで来てるとは思わなかった」
それは、
からかいじゃない。
ちゃんとした、
喜びの声だった。
周囲では、下女や医官たちが、
小声で話している。
「回復、早すぎない?」
「料理が、そんなに違うのか……」
「名前、聞いた?」
誰も、俺の正体を知らない。
だが、
確かに“何か”は残った。
猫姉は、歩きながら言った。
「これで、
流れは変わる」
「うん」
「……あとは、
変な横槍が入らなければ、だけど」
その言葉の意味を、
俺は深く考えなかった。
今はただ。
猫姉が、
嬉しそうだったことが、
何よりだった。
それだけで、この一椀を作った意味は、十分にあった。
そうした、会話が行われた別の場所。
後宮の一角、表向きには人の少ない回廊。
だが、その奥では、すでに報告が上がっていた。
「……主賓の容体は、安定したとのことです」
料理長が一礼し、そう告げる。
壬氏は、文書から視線を上げただけで、すぐには返さなかった。
横に控える高順も、あえて口を挟まない。
「急な回復だな」
壬氏が、ようやく言った。
「薬の変更は?」
「ございません」
料理長は、迷いなく答える。
「薬は従来通り。
変えたのは、食事のみです」
高順が、わずかに眉を動かした。
「料理、ですか」
「はい」
料理長は、一呼吸置き、続ける。
「烏骨鶏が使われました」
その言葉に、空気がわずかに張り詰めた。
「……烏骨鶏?」
壬氏が、はっきりと反応する。
「確か、あれは――」
「ええ」
料理長は、静かに頷いた。
「“伝説の鳥”とも呼ばれる食材。
滋養は極めて高いですが、
扱いを誤れば、ただの濁った湯になります」
高順が、腕を組む。
「だからこそ、
これまで出されなかった」
「その通りです」
料理長は、視線を落とした。
「火加減、水、時間。
どれか一つでも狂えば失敗する。
本来なら、宴で使うような食材ではありません」
壬氏は、静かに息を吐いた。
「……それを、
あの料理人が?」
「はい」
料理長は、はっきりと言った。
「しかも、
香味野菜も、酒も使わず。
澄み切った湯で仕上げていました」
一瞬、沈黙。
壬氏の視線が、遠くを見る。
「……只者ではないな」
その声には、確信があった。
高順も、同意するように頷く。
「偶然ではありません。
狙ってやっています」
壬氏は、ふと話題を変えた。
「ところで」
「はい」
「その料理人と、
猫猫は、随分と近いようだな」
高順の眉が、わずかに上がる。
「……距離、ですか」
「名前を呼ぶ声が、
廊下まで聞こえた」
壬氏の声は、平静だ。
だが、ほんの僅かに、温度がある。
「“猫姉”だったか」
高順は、一瞬だけ目を伏せた。
「幼少からの知己だそうです」
「知己、ね」
壬氏は、鼻で笑うでもなく、
ただ、指先で机を叩いた。
「ずいぶんと、
自然に並んでいた」
その言葉に、周囲の側近たちが視線を交わす。
――ああ、これは。
高順は、内心でため息をついた。
「殿下」
あえて、少しだけ砕けた声で言う。
「猫猫は、
ああいう距離感の人間です」
「分かっている」
即答。
「だが――」
言葉が、止まる。
高順は、言外の続きを察した。
“分かっているが、気に入らない”。
それだけだ。
周囲の者たちは、
聞こえないふりをする。
慣れている。
「……それより」
壬氏は、話を戻した。
「猫猫が、
その料理を通したのだな」
「はい」
料理長が答える。
「献立変更の件、
彼女が一手に引き受けました」
高順が、静かに言う。
「では、
あの料理人の存在を、
意図的に伏せたと」
「その可能性は高いかと」
壬氏は、目を細めた。
「守った、というわけか」
高順は、何も言わない。
否定もしない。
「……ますます、
面白いな」
壬氏の声は、低い。
「料理で人を立て直し、
名前も立場も求めない」
机に手を置く。
「猫猫が、
自分の裁量で動くほどの相手」
高順は、静かに結論づける。
「危険でもあり、
同時に――」
「貴重だ」
壬氏が、言葉を継いだ。
しばしの沈黙。
やがて、壬氏は立ち上がる。
「しばらくは、
様子を見る」
「御意」
「正体も、
表には出すな」
その命令に、
料理長も高順も深く頭を下げた。
壬氏は、回廊の先を見やる。
そこには、もう誰もいない。
だが確かに、
猫猫と、あの料理人がいた。
――近すぎる距離で。
「……厄介だな」
小さく呟く。
高順は、心の中でそっと付け足した。
今さらです、と。