薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

5 / 100
宮廷毒膳事件録 五

 主賓の部屋の空気が、明らかに変わっていた。

 

 さっきまで漂っていた、重く澱んだ気配がない。

 代わりにあるのは、静かな落ち着きだ。

 

 猫姉は、いつも通りの顔で部屋に入った。

 だが、目だけは違う。

 

 ――全部、見る目だ。

 

「失礼します」

 

 そう言って、自然な動きで主賓の傍へ行く。

 

 脈。

 呼吸。

 肌の温度。

 

 猫姉は、指先だけで確認していく。

 医官が横で見ているが、口は挟まない。

 

「……脈、安定してますね」

 

 猫姉が言うと、医官が目を見開いた。

 

「え?

 つい先ほどまでは――」

 

「速すぎもしないし、

 弱くもない」

 

 淡々とした声。

 

「ちゃんと、戻ってきてる」

 

 主賓自身も、気づいているらしい。

 胸に手を当て、ゆっくりと息を吸っている。

 

「不思議だ……」

 

 低く、落ち着いた声。

 

「さっきまで、

 体の芯が冷えていたのに」

 

 猫姉は、頷いた。

 

「今は、

 無理に温めてる感じじゃない」

 

 そこで、一瞬だけ視線がこちらに向く。

 

 俺は、思わず背筋を伸ばした。

 

「……自然に、戻ってる」

 

 それが、猫姉の結論だった。

 

 周囲が、ざわつく。

 

「薬を変えたわけでもないのに……」

「では、原因は……」

「本当に、食事だけで……?」

 

 猫姉は、首を横に振る。

 

「“だけ”じゃないです」

 

 言葉を選びながら、続ける。

 

「薬は、ちゃんと効いてました。

 ただ――」

 

 一拍。

 

「体が、

 それを受け取れる状態じゃなかった」

 

 医官が、はっとする。

 

「……なるほど」

 

 猫姉は、そこで初めて、少しだけ表情を緩めた。

 

 そして、俺の方を見る。

 

 その目が、

 どこか嬉しそうだった。

 

「料理のことは、

 正直よく分からないけど」

 

 小さく、肩をすくめる。

 

「……マオ、

 あんた、相当やってるでしょ」

 

 その言葉に、

 胸の奥が、少し熱くなる。

 

「前はね」

 

 猫姉は、続けた。

 

「“美味しい”とか、

 “すごい”とか、

 そういう印象だった」

 

 それを覚えていること自体が、

 少し意外だった。

 

「でも、今のは――」

 

 言葉を探し、

 最後にこう言った。

 

「ちゃんと、

 人の体を見てる料理」

 

 第三者たちが、顔を見合わせる。

 

「料理で、そこまで……」

「医官でも、難しい判断だぞ……」

「若いのに……」

 

 猫姉は、少し照れたように鼻を鳴らした。

 

「本人は、

 たぶん自覚してないと思うけど」

 

 俺は、思わず視線を逸らした。

 

 自覚、

 と言われると、弱い。

 

 猫姉は、もう一度主賓の様子を確認する。

 

「このまま、

 同じ方向の食事を続ければ」

 

 はっきりとした声。

 

「回復は、

 確実です」

 

 その断言に、

 部屋の空気が、完全に落ち着いた。

 

 主賓が、ゆっくりと頷く。

 

「……感謝する」

 

 誰に、とは言わなかった。

 だが、それで十分だった。

 

 猫姉は、一礼して部屋を出る。

 

 廊下に出た瞬間、

 少しだけ声の調子が変わった。

 

「ふぅ……」

 

「……大丈夫?」

 

「大丈夫大丈夫」

 

 軽く手を振る。

 

「でも、

 ほんとに驚いた」

 

 俺を見る。

 

「マオが、

 ここまで来てるとは思わなかった」

 

 それは、

 からかいじゃない。

 

 ちゃんとした、

 喜びの声だった。

 

 周囲では、下女や医官たちが、

 小声で話している。

 

「回復、早すぎない?」

「料理が、そんなに違うのか……」

「名前、聞いた?」

 

 誰も、俺の正体を知らない。

 だが、

 確かに“何か”は残った。

 

 猫姉は、歩きながら言った。

 

「これで、

 流れは変わる」

 

「うん」

 

「……あとは、

 変な横槍が入らなければ、だけど」

 

 その言葉の意味を、

 俺は深く考えなかった。

 

 今はただ。

 

 猫姉が、

 嬉しそうだったことが、

 何よりだった。

 

 それだけで、この一椀を作った意味は、十分にあった。

 そうした、会話が行われた別の場所。

 後宮の一角、表向きには人の少ない回廊。

 

 だが、その奥では、すでに報告が上がっていた。

 

「……主賓の容体は、安定したとのことです」

 

 料理長が一礼し、そう告げる。

 

 壬氏は、文書から視線を上げただけで、すぐには返さなかった。

 横に控える高順も、あえて口を挟まない。

 

「急な回復だな」

 

 壬氏が、ようやく言った。

 

「薬の変更は?」

 

「ございません」

 

 料理長は、迷いなく答える。

 

「薬は従来通り。

 変えたのは、食事のみです」

 

 高順が、わずかに眉を動かした。

 

「料理、ですか」

 

「はい」

 

 料理長は、一呼吸置き、続ける。

 

「烏骨鶏が使われました」

 

 その言葉に、空気がわずかに張り詰めた。

 

「……烏骨鶏?」

 

 壬氏が、はっきりと反応する。

 

「確か、あれは――」

 

「ええ」

 

 料理長は、静かに頷いた。

 

「“伝説の鳥”とも呼ばれる食材。

 滋養は極めて高いですが、

 扱いを誤れば、ただの濁った湯になります」

 

 高順が、腕を組む。

 

「だからこそ、

 これまで出されなかった」

 

「その通りです」

 

 料理長は、視線を落とした。

 

「火加減、水、時間。

 どれか一つでも狂えば失敗する。

 本来なら、宴で使うような食材ではありません」

 

 壬氏は、静かに息を吐いた。

 

「……それを、

 あの料理人が?」

 

「はい」

 

 料理長は、はっきりと言った。

 

「しかも、

 香味野菜も、酒も使わず。

 澄み切った湯で仕上げていました」

 

 一瞬、沈黙。

 

 壬氏の視線が、遠くを見る。

 

「……只者ではないな」

 

 その声には、確信があった。

 

 高順も、同意するように頷く。

 

「偶然ではありません。

 狙ってやっています」

 

 壬氏は、ふと話題を変えた。

 

「ところで」

 

「はい」

 

「その料理人と、

 猫猫は、随分と近いようだな」

 

 高順の眉が、わずかに上がる。

 

「……距離、ですか」

 

「名前を呼ぶ声が、

 廊下まで聞こえた」

 

 壬氏の声は、平静だ。

 だが、ほんの僅かに、温度がある。

 

「“猫姉”だったか」

 

 高順は、一瞬だけ目を伏せた。

 

「幼少からの知己だそうです」

 

「知己、ね」

 

 壬氏は、鼻で笑うでもなく、

 ただ、指先で机を叩いた。

 

「ずいぶんと、

 自然に並んでいた」

 

 その言葉に、周囲の側近たちが視線を交わす。

 

 ――ああ、これは。

 

 高順は、内心でため息をついた。

 

「殿下」

 

 あえて、少しだけ砕けた声で言う。

 

「猫猫は、

 ああいう距離感の人間です」

 

「分かっている」

 

 即答。

 

「だが――」

 

 言葉が、止まる。

 

 高順は、言外の続きを察した。

 

 “分かっているが、気に入らない”。

 

 それだけだ。

 

 周囲の者たちは、

 聞こえないふりをする。

 

 慣れている。

 

「……それより」

 

 壬氏は、話を戻した。

 

「猫猫が、

 その料理を通したのだな」

 

「はい」

 

 料理長が答える。

 

「献立変更の件、

 彼女が一手に引き受けました」

 

 高順が、静かに言う。

 

「では、

 あの料理人の存在を、

 意図的に伏せたと」

 

「その可能性は高いかと」

 

 壬氏は、目を細めた。

 

「守った、というわけか」

 

 高順は、何も言わない。

 否定もしない。

 

「……ますます、

 面白いな」

 

 壬氏の声は、低い。

 

「料理で人を立て直し、

 名前も立場も求めない」

 

 机に手を置く。

 

「猫猫が、

 自分の裁量で動くほどの相手」

 

 高順は、静かに結論づける。

 

「危険でもあり、

 同時に――」

 

「貴重だ」

 

 壬氏が、言葉を継いだ。

 

 しばしの沈黙。

 

 やがて、壬氏は立ち上がる。

 

「しばらくは、

 様子を見る」

 

「御意」

 

「正体も、

 表には出すな」

 

 その命令に、

 料理長も高順も深く頭を下げた。

 

 壬氏は、回廊の先を見やる。

 

 そこには、もう誰もいない。

 

 だが確かに、

 猫猫と、あの料理人がいた。

 

 ――近すぎる距離で。

 

「……厄介だな」

 

 小さく呟く。

 

 高順は、心の中でそっと付け足した。

 

 今さらです、と。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。