薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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乾物庫の毒 壱

 炭の火は嘘をつかない。赤くなるなら熱いし、弱いなら弱い。俺は御膳房の隅で小鍋を預かって、今夜の仕込みに使う湯を静かに温めていた。沸かしすぎれば香りが立つ。立ちすぎれば、余計なものまで呼んでしまう。後宮の厨房ってのは、料理より先に空気の加減が難しい。

 

 背後で足音が止まり、ためらう気配がした。急ぎなのに、声が出せない時の止まり方だ。振り返ると、若い下女が視線を伏せ、両手を揃えて立っていた。

 

「失礼いたします。猫猫さんを、お呼びするようにと……」

 

 猫姉――猫猫は、ちょうど薬包を畳んでいるところだった。俺よりずっと小さな手で、淡々と紙を揃えている。呼びかけられても顔色は変わらない。変わらないのに、指先だけが一瞬止まった。

 

「どなたからでしょうか」

 

 猫姉の声は低く、丁寧だった。言葉遣いは柔らかいのに、余計な温度がない。下女はほっとしたように息をつき、答える。

 

「玉葉妃さまよりでございます」

 

 その名に、厨房の空気がほんの少しだけ固くなった気がした。俺は思わず背筋を正す。妃、しかも玉葉妃。後宮の中心に近い場所からの呼び出しだ。猫姉は、息を飲み込むみたいに鼻で短く呼吸してから、続けた。

 

「ご用件を、差し支えない範囲で伺ってもよろしいですか」

 

「はい……最近、膳の後に胃が重いとか、頭が重いとか。眠りが浅いとも。猫猫さんに見てほしいと」

 

 猫姉は「承知しました」とだけ言い、すぐに問いを重ねた。丁寧なのに、逃げ道を与えない聞き方だ。

 

「いつ頃からでしょうか」

 

「ここ数日、です。すぐ楽になる日もあるのですが……また繰り返すと」

 

「食後すぐでしょうか。それとも、しばらくしてからですか」

 

「しばらくしてから、だと」

 

 猫姉の眉が、ほんの少しだけ動いた。分かった、という動きじゃない。嫌な可能性が頭に浮かんだ、という動きだ。

 

「玉葉妃さまお一人でしょうか。同じような方はいらっしゃいますか」

 

「それが……側仕えの者も、似たようなことを言っております。皆ではないのですが……」

 

 俺はそこで、ようやく“形”が見えた気がした。ひとりだけが倒れるなら、狙い撃ちの毒もある。でも、薄く広がるなら話が違う。猫姉はさらに、膳そのものへ視点を寄せていく。

 

「膳の内容は、ここ数日で変わりましたか。食材や菓子、薬味などで心当たりは」

 

「いつも通りと聞いております。香も、特に新しいものでは……」

 

 猫姉は一拍置いた。下女の言葉を遮る勢いはなく、ただ、優先順位を静かに置き直す。

 

「香についても伺いました。ありがとうございます。まずは膳の流れを確認させてください」

 

 下女がうなずく。猫姉の言い方は丁寧だが、もう決めている。俺は鍋の湯を火から外しながら、耳だけはそっと近づけた。こういう時、口を挟むと邪魔になる。だけど、黙ってると置いていかれる気がして落ち着かない。

 

「大事には至っておりません、とのことでしたが……倒れたりは」

 

「はい。そこまでは……」

 

「承知しました。大事に至っていない、というのが一番厄介なこともありますので」猫姉は淡々と言い、薬包を束ねて袖へ押し込んだ。「案内をお願いできますか」

 

「は、はい。すぐに」

 

 下女が慌てて頭を下げる。その瞬間、猫姉の視線が一度だけ俺に飛んできた。包丁の刃が光る、あの一瞬みたいな鋭さ。

 

「……マオさん、少しお時間はありますか」

 

 呼び名に「さん」を付けてくるあたり、猫姉なりの線引きだ。俺は手を拭ってから頷いた。妃の前に出るなんて、胃がきゅっとなる。でも、鍋の底に沈む“何か”を見落とすわけにはいかない。そんな予感だけが、舌の裏に残っていた。

 

 下女が先に廊下へ下がり、足音が遠ざかると、御膳房の隅に残った湯気だけが急に目立った。猫姉は袖の中で薬包の位置を確かめ、乱れのない顔でこちらを見た。さっきまで下女に向けていた丁寧な声が、今は少しだけ低くなる。声量は変わらないのに、距離が近づく感じがした。

 

「マオさん、今すぐ動けますか」

 

「はい。……ただ、俺が出て大丈夫なんですか。呼ばれているのは猫姉で」

 

「呼ばれているのは私です」猫姉は淡々と言い直した。「でも、膳の話になりそうです。現場の目があった方が早いので」

 

 “早いので”と言いながら、猫姉は俺の顔色を一瞬だけ確かめた気がした。俺が頷くかどうか、その一拍だけ待っている。昔からそうだ。頼むようで頼まない。助けを前提にするくせに、甘えた言い方はしない。そのくせ、困るときほど目だけは真剣になる。

 

「分かりました。俺にできることがあるなら」

 

「あります」即答だった。「ただし、余計なことをしないでください」

 

「余計なことって……」

 

「目立つこと、騒ぐこと、勝手に厨房をいじること。あと、私のことを『猫姉』と呼ぶこと」

 

 最後の一つが、妙に刺さった。俺が息を詰めたのが分かったのか、猫姉は視線を外さずに続ける。

 

「後宮では、呼び方が噂を作ります。噂は面倒です」

 

「……じゃあ、なんて呼べば」

 

「猫猫さんで」

 

「猫猫さん」口に出すと、どうにも舌が慣れない。猫姉はそれを聞いても表情を変えず、ただ一度だけ小さく頷いた。

 

「それと、妃に会うなら礼儀だけは守ってください。あなたが失礼をすると、私の仕事が増えます」

 

「それは、絶対に避けたいです」

 

「避けたいなら、言葉を短く。聞かれたことだけ答える。料理の話を求められたら、料理だけ答える。余計な旅の話もしない」

 

 猫姉の言葉は淡々としているのに、どこか棘がある。刺したい棘じゃない。危ないから触るな、という棘だ。俺は鍋の火を落とし、手を拭きながら、さっき聞いた症状を頭の中で転がした。食後すぐじゃない。しばらくしてから重くなる。しかも薄く広がる。ひとり狙いじゃなく、同じ膳に触れた者の線。そうなると、料理そのものというより、仕込みや保存――特に乾物の戻しや、戻し水の扱いが怪しくなる。熱を入れても、残るものがある。

 

「猫猫さん」呼び方をもう一度確かめるように言って、俺は声を落とした。「食後しばらくしてから、っていうのが気になります。もし膳が原因なら、香りや味より……戻しや保存の方が」

 

「今は結論を急がないでください」猫姉はきっぱり言った。けれど、否定ではない。続きがあった。「でも、その連想は覚えておいてください。膳の流れを見て、あなたの勘が同じ方向を向くなら、私もそちらを疑います」

 

 その一言で、胸の内がすっと整った。俺は料理人だ。包丁を握る手と、鍋の音と、戻し水の色に敏感でいることが、ここでは役に立つ。猫姉は薬屋で、症状と経路から毒の形を切る。それが噛み合うなら、たぶん早い。

 

 そこへ、さっきの下女が廊下の角から顔を覗かせた。急かすようで急かさない、後宮特有の遠慮が混じった顔だ。猫姉はすぐに姿勢を整え、声の温度を一段だけ上げた。

 

「お待たせいたしました。すぐに参ります」

 

「……あの、御膳房の方もご一緒に、と」

 

 下女が言いにくそうに付け足す。猫姉は一瞬だけ間を置いて、言葉を選んだ。ここが“同行の必然”を作る場所だと、俺にも分かった。

 

「承知しました。こちらの料理人も、膳の確認のために同席させていただきます。妃さまのお身体のことですので、見落としがないように」

 

「料理人……ですか」

 

「はい。私一人では、調理や仕込みの細かな癖までは見切れませんので」

 

 丁寧な口調なのに、言い切りが強い。下女は一度俺を見た。御膳房の者にしては旅装束が混じっているし、顔も見慣れない。疑って当然だ。俺は反射的に背筋を伸ばし、頭を下げた。

 

「料理人のマオと申します。本日は猫猫さんのお手伝いとして参ります。失礼のないよう努めます」

 

 自分で言っていて喉が乾いた。妃の居所へ行く。俺が? 心臓が少しだけ速くなる。熱い鍋の前なら落ち着いていられるのに、礼儀作法の前になると勝手が違う。猫姉は横目でこちらを見て、ほんの少しだけ目を細めた。呆れているのか、確認しているのか、判然としない。けれど次の言葉は、少しだけ柔らかかった。

 

「……大丈夫ですか」

 

「大丈夫です」俺は即答した。「たぶん」

 

 猫姉の視線が、じとりと重くなる。言葉にしなくても分かる。「たぶん、が余計」。俺は慌てて言い直した。

 

「大丈夫です。はい」

 

「よろしいです」猫姉は下女に向き直り、丁寧に頭を下げた。「案内をお願いいたします」

 

 廊下へ出ると、空気が少し冷たい。料理の匂いが薄れ、かわりに布と香と、人の気配の匂いが増える。俺は足音を殺すように歩きながら、猫姉の背中を見た。昔、勝手に一人でどこかへ行ってしまう人だと思っていた。けれど今は違う。ちゃんと、必要なときに必要な人を連れていく。その連れていかれる側に俺がいるのが、少しだけ誇らしくて、少しだけ怖かった。

 

「マオさん」

 

「はい」

 

「念のためもう一度。妃の前では、余計なことを言わない」

 

「はい」

 

「余計なことを考えるのは、帰ってからでいいです」

 

「……それは無理です」

 

 俺が思わず小声で返すと、猫姉は前を向いたまま、気のせいみたいに口元をほんの少しだけ緩めた。次の瞬間にはもう、いつもの無表情に戻っている。後宮の奥へ向かう廊下は長い。だけど、歩幅は揃った。揃ってしまえば、案外、進める気がした。

 廊下を進むほど、御膳房の匂いが遠のいていく。湯気と油の熱気の代わりに、布と木と、磨かれた床の冷たい匂いが増えて、足音さえ「音を立てるな」と言われているみたいだった。案内の下女は歩幅を一定に保ち、俺と猫姉は少し後ろをついていく。猫姉は前を見たまま、背筋をきれいに伸ばしている。いつもの調子だ。こういう場所では、あの人の無表情が鎧になる。

 

 曲がり角を二つ抜けたあたりで、空気が変わった。柔らかく温められた部屋の気配。香は確かにあるが、押しつけがましくない。俺の鼻は勝手に材料の仕込みを思い浮かべそうになり、慌てて頭を切り替える。今日は料理をする日じゃない。見る日だ。失礼をしない日だ。

 

 引き戸の前で案内の下女が膝を折り、声を落とした。

 

「玉葉妃さま、猫姉がお目にかかりに参りました」

 

 内側から「どうぞ」という声が返り、戸が静かに開く。最初に目に入ったのは、白い屏風と、薄い布越しに落ちる光だった。次に、座の中心。そこにいる人を見た瞬間、喉の奥がきゅっと縮む。

 

 綺麗だ、と思った。綺麗という言葉で片づけるには雑すぎて、でも他に言いようがない。肌の明るさも、髪の艶も、着物の色も、全部が「計算されている」のに、冷たくない。目が合ったとき、こちらを値踏みする刃じゃなく、柔らかい水面みたいな落ち着きがあった。後宮の中心に近い人の“格”が、音もなく漂っている。

 

 俺は反射で深く頭を下げたが、どのくらい下げればいいのか一瞬迷って、余計にぎこちなくなった気がする。

 

「猫猫、来てくれてありがとう。急に呼んでしまってごめんなさいね」

 

 玉葉妃さまの声は、控えめなのに通る。喉を撫でる湯みたいな温度がある。猫姉は一歩前に出て、丁寧に膝を折った。

 

「お呼びいただきありがとうございます、玉葉妃さま。ご体調がすぐれないと伺いました」

 

「大げさなことじゃないの。けれど、続くと気持ちが沈むでしょう。あなたはそういうの、嫌いじゃない?」

 

「嫌いです」猫姉がさらりと言った。「面倒なので」

 

 玉葉妃さまがくすりと笑う。空気が一段だけ軽くなった。俺はその瞬間、緊張の糸が少し緩んで、逆に自分が何をしに来たのかを思い出す。猫姉がこちらへ視線を寄こした。短い。鋭い。――“余計な顔をするな”という視線だ。

 

 俺は姿勢を正して、息を整えた。

 

 猫姉が紹介の言葉を選ぶ間、俺は勝手に指先が固くなるのを感じた。包丁なら握れる。鍋の前なら冷静でいられる。でも、この場の“正解”は料理の腕じゃ測れない。そこが怖い。

 

「こちら、料理人のマオさんです。膳の流れや仕込みの点で、私一人では見落としが出るかもしれませんので、同席をお願いしました」

 

 猫姉は妃に向けて丁寧に言い、俺にも逃げ道のない形で話を振った。俺はもう一度、深く頭を下げる。

 

「初めてお目にかかります。料理人のマオと申します。本日は猫姉のお手伝いとして参りました。失礼のないよう努めます」

 

 言えた。言えたはずだ。なのに声が少しだけ上ずった気がして、俺は自分の喉を恨んだ。

 

 玉葉妃さまは俺を見て、驚いたように目を細め、それから柔らかく頷いた。

 

「まあ。猫猫が料理人を連れてくるなんて珍しい。噂は耳にしていたけれど、本当に連れて歩いているのね」

 

「連れて歩いてません」猫姉が即座に否定した。「勝手について来ます」

 

 俺は「え」と言いかけて飲み込んだ。ここで反論するのは“余計なこと”だ。隣から、じっとりした視線が刺さる。猫姉のジト目だ。言葉はない。あるのは「今、口を開くな」の圧だけ。俺は口を閉じ、背筋をさらに伸ばした。

 

 玉葉妃さまは面白そうに笑い、手元の茶を軽く持ち上げた。

 

「では、勝手について来た料理人さんに聞いてみようかしら。猫猫が言うほど勝手なの?」

 

 俺は喉を鳴らし、慎重に言葉を選んだ。

 

「勝手……というより、猫姉が必要なときは、力になりたいと思っております」

 

 猫姉のジト目が、ほんの少しだけ濃くなる。俺は内心で(言い方が甘い、違う、もっと短く)と反省したが、もう遅い。玉葉妃さまはその返答を咎めるでもなく、むしろ柔らかく目を細めた。

 

「いいわね。そういうの、嫌いじゃないわ」

 

 猫姉が小さく咳払いをした。咳払いなのに、釘を打つ音に聞こえる。

 

「玉葉妃さま、ご体調のことを伺ってもよろしいでしょうか。いつ頃から、どのように」

 

「そうね……」玉葉妃さまは少し考えてから、落ち着いた声で言った。「ここ数日、食事のあとに胃が重いの。すぐではなくて、しばらくしてから。頭もぼんやりする日がある。眠りも浅い気がするわ」

 

「お食事の内容は、変わったことは」

 

「大きくは変わっていないと思うの。でも、側の者も同じようなことを言っていてね。皆ではないけれど」

 

 その一言で、俺の中の不安が形になる。ひとりだけじゃない。薄く広がる。しかも“遅れて”来る。火を通しても残るもの。保存や戻しの段階で入り込むもの。俺の視線が無意識に、部屋の隅――運ばれてくる膳の動線を探した。

 

 猫姉は頷き、淡々と続ける。

 

「承知しました。まず、今日の膳の流れと、最近よく出ている品を確認させてください。必要なら、御膳房にも当たります」

 

「お願いするわ。猫猫、あなたのその“面倒そうな顔”が頼もしいのよ」

 

「光栄です」猫姉は光栄そうに言わなかった。「面倒なので、早く終わらせます」

 

 俺は小さく息を吸って、腹の底に落とした。よし。ここからは俺の仕事も始まる。妃の美しさに緊張している場合じゃない。――いや、緊張はしている。しているけれど、それを包丁みたいに研いで、観察に回すしかない。

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