玉葉妃さまの前に置かれた茶は湯気を上げていたが、部屋の空気は熱くない。上品に整えられた温度――と言えば聞こえはいいが、俺には「余計な匂いが立たないように管理された部屋」に感じられた。料理人の勘ってやつは便利なときもあれば、こういう場所では落ち着かないだけのときもある。
猫姉は膝を折った姿勢のまま、玉葉妃さまの言葉を待っている。さっきの紹介の場面で、俺が余計なことを言いそうになった瞬間、あのジト目で口を縫い付けられたのを思い出す。ここでは俺は“目”でいる。舌は仕舞っておく。
「ここ数日ね」玉葉妃さまは穏やかな声で続けた。「食事のあとに、胃が重いの。すぐじゃなくて……少ししてから。頭も、ぼんやりする日がある。夜も、浅い眠りで」
猫姉は小さく頷いた。肯定というより、今の言葉を帳面に写すような頷きだ。口を開く前に、猫姉は一度だけ呼吸を整える。質問の順番を決めるときの、あの間。
「恐れ入ります。まず、確認させてください」猫姉の声は丁寧で、硬すぎない。「食後、すぐに重くなるのではなく、少ししてから、ですね」
「ええ。すぐに、という感じではないの」
「その“少し”は、どのくらいでしょう。食べ終えてから……十分、三十分、一刻ほど、など」
玉葉妃さまは少し考える顔をした。思い出すというより、体の感覚を手のひらで測るみたいな表情だ。
「三十分くらいかしら。日によっては、もう少し遅い気もする」
「承知しました」猫姉は頷き、次を短く投げる。「重さは、胃の辺りだけでしょうか。それとも、吐き気や、むかつきも」
「吐くほどではないわ。むかつき……というより、重い、鈍い感じね」
「頭のぼんやりは、食後に一緒に来ますか。それとも、別の時間帯に出ますか」
玉葉妃さまがまた視線を上げる。猫姉の質問は優しいのに逃げ道がない。答えるほど、体の中の出来事が形になる。
「だいたいは一緒。食後に胃が重い日ほど、頭も重い気がする」
俺は、思わず指先に力が入った。食後すぐじゃない。三十分前後。胃と頭が連動。偶然の不調にしては筋が良すぎる。料理で言えば、火が入ってから出る雑味に近い。最初の一口は普通なのに、後からじわっと来る、いやな残り。
猫姉はその“残り”を言葉にする代わりに、さらに刻む。
「眠りが浅いのは、その夜だけでしょうか。それとも、翌日まで残りますか」
「翌日まで残るほどではない……けれど、眠った気がしない日が続くと、次の日もだるいわね」
「承知しました」猫姉は一拍置いて、ここでいったん整理に入った。相手の不安を煽らないように、しかし曖昧にもしない言い方を選んでいるのが分かる。
「では、今のお話をまとめます。ここ数日、食後すぐではなく三十分ほどしてから、胃の重さが出ることがある。重い日は頭もぼんやりすることがあり、眠りが浅いと感じる日が続いている……ということですね」
玉葉妃さまが小さく頷いた。
「ええ。その通りよ」
猫姉は「ありがとうございます」と頭を下げた。その一言が、妙に効く。聞き取りが終わった合図みたいだった。次は原因を絞るための問いに入る――俺はそう身構えた。猫姉は急がない。けれど迷わない。質問が刻まれていくたび、見えない鍋の中身が少しずつ澄んでいく気がした。
俺は息を吸って、胸の中でだけ準備をする。ここから先、膳の話になる。仕込みの話になる。俺が役に立てるところだ。そう思った瞬間、猫姉が静かに視線を上げた。次の質問の刃を、もう研ぎ終えた目だった。
猫姉が視線を上げた、その先には、膳が置かれる位置と、人の動きの余白があった。妃の体調を問う時間は終わった。ここからは、体の外側――膳と、その周りを切り分ける段だ。
「恐れ入ります」猫姉は姿勢を崩さずに続けた。「次に、広がり方を確認させてください。玉葉妃さまお一人だけの不調でしょうか」
玉葉妃さまは首を横に振った。
「側に仕える者の中にも、似たことを言う者がいます。全員ではありませんが……同じ日に、同じ膳に触れた者が多い気がします」
その一言で、部屋の空気がわずかに締まった。俺は思わず、膳の運ばれる導線を頭の中でなぞる。個人の体質なら、ここまで揃わない。狙い撃ちなら、もっと分かりやすく倒れる。薄く、遅れて、同じ線に沿って広がる――料理で言えば、同じ鍋、同じ戻し、同じ保存だ。
猫姉は短く頷き、質問を重ねる。
「同じ膳、というのは……同じ時間帯でしょうか。それとも、品が共通していましたか」
「時間帯は、だいたい同じです。品も……特別なものではなく、いつもの献立だったはず」
「承知しました」
猫姉の返事は淡々としているが、芯がはっきりしてきたのが分かる。急性の強い毒なら、今頃もっと騒ぎになっている。だがこれは違う。猫姉は、結論を言わない代わりに、否定を置いた。
「今すぐ倒れる類のものではなさそうです。急に心臓を止めるような強い毒の線は、今のところ薄いでしょう」
玉葉妃さまが、少しだけ肩の力を抜いた。猫姉は安心させすぎない距離を保ったまま、続ける。
「ただし、放っておいてよいとも言えません。食後“少ししてから”出る重さが続くのは、体にとって良い状態ではありませんので」
俺は胸の内で頷いた。料理でも同じだ。食べた直後は問題なくても、後から来る違和感は、たいてい厄介だ。
猫姉は、ここで三つに切った。
「考えられる型は、大きく三つです」
指を立てはしない。だが言葉の置き方が、はっきりと区切っていた。
「一つ。弱い毒が、継続して混ざっている可能性。即効性はありませんが、重なれば不調が出ます」
玉葉妃さまは黙って聞いている。
「二つ。食材そのものではなく、保存や戻し、仕込みなどの工程で混じる可能性。膳に乗る前の段階です」
俺の背中に、ひやりとしたものが走る。工程――そこは、俺の土俵でもある。
「三つ。体調要因が偶然重なっただけ、という可能性。ですが……」猫姉は一拍置いた。「広がり方が、あまり説明できません」
玉葉妃さまの視線が、わずかに鋭くなる。猫姉は、ここでも断定を避けた。
「現時点では仮説です。決めつけはしません。ただ――」
猫姉は、静かに場を締めた。
「食材が原因なら、もっと分かりやすく出ます。遅れて来て、薄く広がる。そういうものは、たいてい台所の“奥”で起きます」
その言葉に、俺ははっきりと腹を括った。奥。乾物。戻し桶。保管。火を入れる前の、水と時間。猫姉は玉葉妃さまに向けて、丁寧に頭を下げる。
「本日は、膳の流れと、最近よく出ている品を控えさせてください。可能であれば、御膳房も拝見したく存じます」
「分かりました」玉葉妃さまは即座に頷いた。「必要なことは、すべて許します。猫猫、あなたの判断に任せるわ」
猫姉は「ありがとうございます」と応じ、そこで初めて、俺の方をちらりと見た。ほんの一瞬だが、意味は分かる。――行くぞ、という合図だ。
猫姉は、膝の上に置いた手を崩さないまま、玉葉妃さまの言葉の“隙間”を待った。問いを急がない。相手が自分で思い出す余白を残す。その沈黙が、後宮では一番雄弁になることを、俺はもう知っている。
「恐れ入ります」猫姉が静かに切り出す。「先ほど“側仕えの者にも似た不調がある”と仰いましたが……皆、同じ日に出たものでしょうか」
「ええ。全く同時、というわけではないけれど」玉葉妃さまは指先で杯の縁をなぞった。「だいたい同じ日。食後の頃合いも、似ていると思うわ」
同じ日、同じ頃合い。俺の頭の中で、膳の配列が一列に並ぶ。個々の体調差で説明するには、揃いすぎだ。
猫姉は頷き、次を重ねる。
「全員が同じ品を口にしましたか。それとも、同じ膳の“流れ”に触れた、という方が近いでしょうか」
言い方が巧い。“品”と“流れ”を分けている。料理人なら分かる。皿が違っても、同じ鍋、同じ戻し、同じ保管に触れることはある。
「……流れ、ね」玉葉妃さまは少し考えた。「皆が同じものを食べたわけではないわ。でも、同じ膳の時間帯に配られたものに触れている者が多いと思う」
猫姉の目が、ほんのわずかに細くなる。確信に近づいたときの目だ。
「承知しました。では、特定の一人だけが重く出る、ということはありませんか。体格や年齢で、極端に差が出た方は」
「そこまでの差は……ないわね。重い軽いはあっても、皆“鈍い不調”という感じ」
鈍い。不揃い。でも同じ線。俺は胸の奥で、鍋の底を想像した。材料の量が少なくても、時間をかければ水に溶けるものがある。火を入れても消えない。薄く、しかし確実に残るもの。
猫姉は、ここで一度だけ、妃を安心させる言葉を置いた。
「命に関わる型ではなさそうです。少なくとも、今この場で急変する兆しはありません」
玉葉妃さまの肩が、わずかに下がる。猫姉はその隙に、要点を締める。
「ですが、広がり方がはっきりしました。特定の人物ではなく、同じ膳の線に沿って薄く出ています。これは――」
猫姉は言葉を切り、断定を避けたまま、方向だけを示す。
「供給か、工程の問題です。配られる前、作られる途中のどこか」
俺は思わず、視線を床に落とした。頭の中で、戻し桶の水面が揺れる。乾物の袋。同じ時間帯に開けられ、同じ水に浸かる。もしそこに、わずかな異物があったら。味は分からなくても、体は覚える。
猫姉は続ける。
「個別の暗殺なら、もっと分かりやすい形になります。ここまで揃って“鈍い”のは、偶然では説明がつきません」
玉葉妃さまは短く頷いた。
「では、台所を」
「はい」猫姉は即答した。「御膳房を拝見します。膳の動線、保管、戻し。必要であれば、記録も」
その言葉で、場の向きが定まった。妃の視線が、俺に一瞬だけ向く。料理人としての目が必要だ、という合図だ。俺は深く頭を下げた。
「現場を見せてください。言葉より、並びと水を見たいです」
猫姉が横目で俺を見る。余計なことを言っていないか、確かめる目だ。合格だったらしく、何も言わない。その沈黙が、次へ進めという合図だった。
薄く広がる――それは、鍋の中身が同じだった証だ。あとは、どの鍋かを当てるだけ。俺は、胸の奥でそう呟いた。
猫姉は、場の向きが台所へ傾いたのを確かめてから、あえて一歩だけ引いた。前に出て断じない。だが、輪郭は与える。その塩梅が、猫姉のやり方だ。
「ここまでのお話から、考えられる“型”を三つに絞ります」
声は低く、穏やかで、しかし逃げ道を与えない。
猫姉は指を立てない。代わりに、言葉の置き所で区切る。
「一つ目。弱い毒が、継続的に混ざっている可能性です。即効性はなく、量も少ない。けれど、日をまたいで重なれば、不調として現れます」
玉葉妃さまは黙って頷いた。俺は胸の奥で、乾物の粉が水に溶けていく様子を思い浮かべる。最初は分からない。だが、続けば、必ず残る。
「二つ目。食材そのものではなく、保存・戻し・仕込みなど、工程で混じる可能性です」
猫姉は言い切らない。だが、“工程”のところで一瞬、視線が俺を掠めた。見ている。役割を、ちゃんと投げてきている。
「同じ膳の流れに沿って薄く広がる点、食後“少ししてから”出る点は、この線と相性が良いです」
俺は喉の奥で息を止めた。工程――水、時間、容器。火を入れる前に決まるもの。料理人の仕事場で起きる、いやな話だ。
「三つ目。体調要因が偶然重なっただけ、という可能性」
猫姉はここで一拍置いた。「冷え、疲れ、睡眠不足。これだけでも、不調は出ます」
玉葉妃さまが口を開きかけたのを、猫姉は静かに制した。
「ただし」
短い一言が、場を締める。
「この場合、広がり方が説明しづらい。時期と線が、揃いすぎています」
否定はしない。だが、重みは明らかだ。猫姉は結論を置かず、仮説のまま机に並べた。どれが残るかは、これからの確認次第――そう言わんばかりに。
俺は視線を落とし、腹の底で整理する。
一つ目は“混ざる”。二つ目は“触れる”。三つ目は“重なる”。
この中で、同じ鍋の底を説明できるのはどれか。答えは、まだ言わない。
猫姉は、妃の不安を和らげるための一言を忘れなかった。
「現時点で、命に関わると決まったわけではありません。ただ、放っておく理由もありません」
玉葉妃さまは静かに息をついた。安心と警戒、その中間の顔だ。猫姉はそこを見逃さず、次の行動へ橋を架ける。
「ですので、断定は避けます。まずは確認です」
「膳の流れ、保管、戻し、仕込み。どこで“型”が合うかを見ます」
俺は、そこで初めてはっきりと頷いた。
言葉で決めない。現場で当てる。
猫姉の三択は、推理じゃない。調査のための刃だ。
この時点では、どれも“あり得る”。
だからこそ、外れる線を一つずつ削る。
包丁と同じだ。切り過ぎない。だが、鈍らせもしない。
猫姉が一歩下がった。その合図で、次は俺の番になる。
工程を見る。水を見る。時間を見る。
鍋の底が、答えるはずだ。
猫姉は三つの仮説を机の上に並べたまま、あえて触れなかった。触れないことで、残るものがある。視線は玉葉妃さまに向いているが、言葉の先は台所の奥――膳に乗る前の、もっと手前に伸びている。
「食材が原因なら」
猫姉は静かに言った。声量は変わらない。だが、芯が定まる。
「もっと分かりやすく出ます。味や匂い、見た目で。少なくとも、同じ日に同じ線で、鈍くは広がりません」
玉葉妃さまは黙って聞いている。否定されているのに、拒まれている感じがしない。猫姉の言い方は、相手を追い詰めない。
「遅れて来て、薄く広がる。しかも、日をまたいで続く」
猫姉は一拍置き、結論ではなく“方向”を置いた。
「そういうものは、たいてい――保存か、戻しです」
その言葉で、俺の頭の中に、いくつもの光景が一気に立ち上がった。乾物の袋。戻し桶。水の張り替え。時間の管理。火を入れる前に決まる工程。料理は、鍋に火をかける前から始まっている。
猫姉は続ける。
「同じ膳の流れに沿って出たということは、配られる前に“共通点”があります。鍋、桶、容器、水。どれか一つでも共通していれば、線になります」
玉葉妃さまが、はっきりと頷いた。
「では、御膳房を」
「はい」猫姉は即答した。「膳の流れを確認します。最近よく出た品、保管場所、戻しの手順。必要なら、記録も拝見します」
“記録”という言葉で、場が少しだけ張る。後宮では、帳面は人の動線を語る。誰が、いつ、何に触れたか。猫姉はそれを分かって言っている。
玉葉妃さまは迷わなかった。
「許します。必要な者は、すべて動かしなさい」
猫姉は深く頭を下げた。その仕草は簡潔で、余計な感情を乗せない。仕事の礼だ。
そこで、猫姉の視線が俺に向いた。短い。だが、十分だ。
――行くぞ。現場だ。
俺は一歩前に出て、頭を下げる。
「御膳房の動線と、戻しの扱いを見たいです。言葉より、並びと水を」
余計なことは言わない。猫姉がさっき、きっちり釘を刺していたからな。猫姉は何も言わず、ただ小さく頷いた。その沈黙が、合図だった。
次の行動が決まった。
保存。戻し。仕込み。
火を入れる前の、見落とされがちな場所。
俺は胸の奥で、包丁を置いた。ここから先は、目と記憶の仕事だ。鍋の底が、答えを持っている。そう確信しながら、俺たちは部屋を出た。
部屋を出る前、猫姉はもう一度だけ、玉葉妃さまに向き直った。礼で締める――と思った、その直前で、言葉を一つだけ挟む。
「恐れ入ります。最近、膳に上ることが多い乾物があれば、教えていただけますか」
乾物、という単語に、俺の背中がぴんと張る。香でも、肉でもない。戻しが要るもの。水と時間に触れるもの。
玉葉妃さまは少し考え、側に控えていた侍女へ目を向けた。侍女が小さく首を傾げ、思い当たったように答える。
「ここ数日は……干し貝柱がよく使われております。滋養になると聞いて」
干し貝柱。俺の頭の中で、音がした。硬い乾物が水を含み、戻るまでに時間がかかる。戻し水は甘く、旨味が出る。だが、古いものほど粉が落ちやすく、膜が出やすい。しかも、少量でも複数の膳に回しやすい。
猫姉は表情を変えなかった。ただ、短く頷く。
「承知しました。ありがとうございます」
それだけだ。断定も、疑いの言葉も置かない。だが、俺には分かる。今の一言で、行き先が決まった。
部屋を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じた。歩きながら、猫姉が低く言う。
「まずは、御膳房。干し貝柱の保管場所と、戻しの手順を見ます」
俺は即座に頷いた。
「戻し桶の数と、水の張り替えも確認したいです。干し貝柱は……扱いで差が出ます」
猫姉は横目で俺を見た。余計なことを言っていないか、確かめる目だ。問題ないと判断したらしく、視線を前へ戻す。
「順番を間違えないでください。見るのは、触れる前です」
「分かってます」俺は言い、心の中で付け足す。――見る、嗅ぐ、触る。その順だ。
干し貝柱。
保存。戻し。水。時間。
具体が一つ出たことで、見えない鍋に輪郭が生まれた。次の場面は決まっている。御膳房だ。戻し桶の前で、答えが待っている。