猫姉は一度、視線を床に落とした。考える仕草というより、場の音を聞き分けるときの間だ。御膳房の奥からは、包丁の音も、湯の弾く音も届かない。人が少ない時間帯。動くなら、今だ。
「……見に行ってください」
猫姉は小さく言った。「ただし、触らない。勝手に動かさない。戻し桶も、袋も、並びを見るだけです」
「分かってます」
俺は頷いた。「見る、嗅ぐ、距離を測る。触るのは、必要になってから」
猫姉は一瞬だけ俺を見る。許可の目だ。続けて、下女としての丁寧さを崩さずに言葉を添える。
「御膳房の方には、私から話を通します。料理の確認、という形で」
それで十分だった。俺は一礼して、御膳房の方へ向かう。廊下を抜けると、空気が変わる。乾いた匂い。紙と布と、古い木の匂いが混じる。乾物庫の前だ。
戸を開けると、薄暗い。光は上から細く落ちて、棚の段が影を作っている。袋が並ぶ。麻袋、紙袋、木箱。紐の結び方、札の位置、置かれ方――どれも“管理されている”顔をしているが、よく見れば差がある。
俺は歩幅を落とし、棚の端から順に目を走らせた。触らない。袋の口を開けない。距離を保ったまま、空気の重なりを見る。乾物は匂いを溜める。古いものほど、匂いは袋の外に滲む。
干し貝柱の棚で、足が止まった。札は新しい。だが、袋の下部が少しだけ白く粉を吹いている。戻しに向かない乾き方だ。粉は悪くない。だが、粉が出るほど乾いたものは、戻し水に“何か”を残しやすい。
棚の配置も気になる。新しい袋が手前、古い袋が奥。理屈では正しい。だが、取り出し口に近い袋の“使用感”が薄い。紐の擦れが少ない。代わりに、奥の袋の紐が毛羽立っている。使われているのは、奥だ。
――順番が、逆だ。
俺は棚全体を見渡した。戻しに使う桶が置かれる位置を想像する。乾物庫から一番近い水場。そこで戻すなら、重い袋は持ち運ばない。近い棚から取る。だとしたら、奥の古い袋が先に減るはずがない。
視線を下げる。床に、乾いた水跡。桶を引きずった痕だ。往復が少ない。つまり、一度にまとめて戻している。少量を何度も、じゃない。まとめて戻し、分けて使う。薄く、広がる。
鼻先に、わずかな甘みが残る。干し貝柱の戻し水の匂いだ。だが、澄んだ甘みじゃない。膜を張った水の、鈍い甘さ。火を入れても消えない種類の残り方。
俺は一歩下がり、全体をもう一度見る。袋の数、棚の高さ、動線。どれも“事故”と言い切れない歪みを持っている。だが、悪意を断じるほどの証拠でもない。だからこそ、厄介だ。料理の事件は、たいていここから始まる。
庫を出る前に、俺は振り返った。触っていない。だが、見た。十分だ。
廊下に戻ると、猫姉が待っていた。表情は変わらない。けれど、目が「どうだった」と言っている。
「古いロットが、先に使われてます」
俺は声を落として言う。「札は新しい。でも、使われているのは奥。順番が逆です」
猫姉は小さく頷いた。否定もしない。肯定もしない。次の刃を出す準備の顔だ。
「戻し方は?」
「まとめて。少量を何度もじゃない。だから、薄く広がる」
猫姉の視線が、御膳房のさらに奥――帳面のある方向へ向いた。俺は言葉を足さない。ここから先は、猫姉の仕事だ。俺は現場を見せた。それでいい。
乾物庫の扉が、静かに閉まる。
料理の事件は、鍋の中じゃなく、その手前で起きている。
その確信だけが、胸の底に残った。
乾物庫の戸を閉めた音が、思ったよりも大きく響いた。静かな場所ほど、音は誤魔化せない。俺は一歩下がり、動線を塞がない位置で立つ。ここは後宮だ。勝手に歩き回る場所じゃない。その線だけは、絶対に越えない。
「もうよろしいですか」
声をかけてきたのは、御膳房の年嵩の料理人だった。以前の一件で、何度か顔を合わせている。目に敵意はない。むしろ、探るような好奇心が混じっている。
「はい。見せていただき、ありがとうございました」
俺は深く頭を下げた。「触っていません。並びと、使われ方だけです」
料理人は短く鼻で息をつき、周囲を一度見回した。部下たちはそれぞれ作業に戻っているが、耳はこっちに向いている。完全な無関心ではない。だが、露骨な干渉もしない。――この距離感が、後宮の台所だ。
「前の件があったからな」
料理人はそう前置きしてから、言葉を選んだ。「あんたの目が利くのは、皆知ってる。だが、ここは後宮だ。好き勝手に調べさせるわけにはいかない」
「承知しています」
俺は即座に頷く。「俺は料理人です。現場を見る役目があるなら、見る。なければ、引きます」
料理人の目が、ほんのわずかに和らいだ。こういう場では、言い訳より線引きの方が通る。
「猫猫殿からは、話は通っている」
料理人は続けた。「妃さまの体調に関わる件だ。だから、並びを見るくらいなら許した。だが、これ以上は――」
「帳面ですよね」
俺が口にした瞬間、料理人の眉が動いた。肯定でも否定でもない。だが、答えは出た。
「……そこから先は、料理人の裁量じゃない」
「分かってます」
俺は一歩引いたまま、頭を下げる。「俺は現場の話を、猫姉に伝えるだけです。判断は、猫姉と、その上の方がします」
“猫姉”という呼び方に、料理人は一瞬だけ首を傾げたが、何も言わなかった。呼び名より、中身を見る人だ。
「戻し桶の数と、水場の位置は確認しました」
俺は必要最低限だけ伝える。「順番に、少し違和感がありました」
料理人は腕を組み、低く唸る。
「……順番、か。気にはなっていた。だが、決めつけはできん」
「はい」
俺は即答した。「だから、決めません。決める材料は、まだ足りない」
料理人はしばらく黙り込み、それから小さく笑った。
「相変わらずだな。火を入れる前に、答えを探す」
「料理は、火を入れる前で決まることが多いですから」
その言葉に、料理人は否定しなかった。ただ、声の調子を落とす。
「……今日は、ここまでだ。これ以上は、猫猫殿の指示を待て」
「ありがとうございます」
俺はもう一度、深く頭を下げた。好意はある。だが、線は引かれている。その両方が、はっきりしているのがありがたい。曖昧な親切ほど、後で刃になるものはない。
振り返ると、少し離れた場所で猫姉が待っていた。表情は変わらない。けれど、俺が無事に戻ってきたことで、場が一段落したのが分かる。
「どうでしたか」
猫姉は、いつもの丁寧な口調で聞く。
「見せてもらえました」
俺は声を落とす。「好意はある。でも、線は固い。ここから先は、猫姉の番です」
猫姉は小さく頷いた。その目は、もう次を見ている。帳面。記録。人の手。
乾物庫から戻る途中、御膳房の一角に設けられた作業台で、戻しの準備が進んでいた。俺は立ち止まらず、しかし視線だけを残す。猫姉が少し離れた位置で人の動きを見ているのが分かる。合図はない。だからこそ、俺は料理人の目で、勝手に拾えるものだけを拾う。
まず、色だ。
干し貝柱の表面に、わずかなムラがある。白が鈍く、ところどころに黄ばみが混じる。致命的じゃない。だが、乾き過ぎたときに出る“抜け”の色だ。次に軽さ。束を持ち替えるときの指の沈みが浅い。水分を失い切ったものは、音が軽い。割れ方も同じだ。角が鋭く、粉が立つ。戻すときに、粉が先に落ちるタイプ――水に余計なものを残しやすい。
次は水。
戻し桶の縁から覗く。触らない。揺らさない。目だけで追う。濁りは薄い。泡も立っていない。だが、水面に“膜”がある。油膜じゃない。指で拭っても落ちない、鈍い張り。洗っても残る違和感の種類だ。水を替えても、桶を替えても、材料が同じなら戻る――そういう膜だ。
そして、匂い。
ここで強い香辛料が出ていないかを見る。古さを誤魔化すとき、人は匂いを重ねる。葱や生姜、山椒。だが今日は、妙に控えめだ。代わりに、戻し水の甘さだけが残る。誤魔化していないのではない。誤魔化せないのだ。強い香を当てれば、余計に目立つ膜がある。
俺は一歩下がり、全体を見る。
乾物の色ムラ、軽さ、割れ方。
戻し水の濁り、泡、膜。
香辛料の使い方――いや、使われていない事実。
線が一本に繋がる。古いロットが、まとめて戻され、薄く分けられている。味は出る。だが、体に残る。だから“遅れて”来て、“薄く”広がる。
猫姉が視線だけで訊いてくる。
俺は小さく頷いた。言葉はいらない。現場は嘘をつかない。