薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

54 / 100
乾物庫の毒 五

 猫姉は、乾物庫の隅にしゃがみ込み、何事もない顔で紙を広げた。周囲の料理人たちは、忙しそうに手を動かしている。誰もこちらを見ていない。見ていたとしても、「下女が何か拾っている」程度にしか映らないだろう。後宮では、その程度の出来事はいくらでもある。

 

「念のためです」

 

 猫姉はそう言って、乾物の欠片を一つ、紙の上に落とした。角が欠け、指でつまむとほろりと崩れる。新しい乾物なら、こんな割れ方はしない。だが、彼女はそれを口にしない。ただ、静かに包む。

 

 次に、戻し桶の縁から、少量の水を掬う。指先を濡らすだけ。水滴が紙に落ち、ゆっくりと染みを作る。透明だ。濁りも泡も目立たない。見た目だけなら、問題はない。

 

 最後に、桶の底に沈んでいた粉。匙も使わない。紙を折り、端でそっとすくい取る。細かい粒が、紙の上で鈍く光る。粉は語らない。だが、溜まっているという事実だけで、十分だった。

 

 俺は一歩離れた位置で、それを見ていた。猫姉の手つきは、いつも通りだ。急がず、誇張せず、必要な分だけを集める。ここまで来たら、もう「疑い」ではない。確認だ。

 

「匂いは?」

 

 小声で聞くと、猫姉は紙包みを鼻先に寄せ、ほんの一瞬だけ目を細めた。

 

「……腐敗臭ではありません」

 

 断言でも否定でもない言い方。だが、俺には分かる。腐って腹を壊す類なら、ここまで鼻が静かでいるはずがない。見た目も、匂いも、通ってしまう状態。だから、ここまで来た。

 

 猫姉は紙包みを重ね、袖の内にしまった。周囲に気づかれない動きだ。

 

「これで足ります」

 

 短い言葉だったが、その目はもう次を見ている。俺は頷いた。料理人としての役目は、ここまでだ。現場は見た。拾うべき違和感は、全部拾った。

 

 ここから先は、猫姉の領分。

 だが――この時点で、俺の背中には、薄く冷たいものが残っていた。

 見た目は腐っていない。匂いも、誤魔化せる。

 それでも、何かが残る。

 

 その正体に、もうすぐ名前がつく。

 猫姉は、採った紙包みを作業台の端に広げた。乾物片、粉、戻し水。どれも量は最小限だ。周囲の視線を引かないよう、動きは控えめだが、手順は無駄がない。俺は少し距離を取り、邪魔にならない位置で見守る。ここからは、料理人の勘と薬屋の理屈を、同じ線に乗せる段だ。

 

「まず、匂い」

 

 猫姉は乾物片を指で転がし、鼻先に寄せる。眉は動かない。次に粉。最後に、戻し水の染み。いずれも同じ反応だ。

 

「強くありません。腐敗なら、ここで来ます」

 

「来ないですね」

 俺は頷いた。「古い匂いはありますが、腐った匂いじゃない。香辛料を当てれば、通ります」

 

「通るから、通ってきた」

 

 猫姉の言い方は淡々としている。だが、言葉の選び方が鋭い。見た目と匂いで“合格”してしまう理由を、先に潰していく。

 

 猫姉は戻し水を一滴、器の縁に落とした。火を入れるほどではない。温度を与えるだけだ。湯気は立たない。匂いも跳ねない。水は、静かなまま重い。

 

「腹を壊す腐敗なら、匂いで分かることが多いです」

 

「でも、今回は違う」

 俺は言葉を継ぐ。「食後すぐじゃない。少ししてから、重さが来る。鈍い」

 

「ええ。鈍る」

 

 猫姉は短く復唱した。肯定だ。否定じゃない。次に、順を追って切り分ける。

 

「盛った毒なら、量で差が出ます」

「個別に強く、狙って来る」

「でも今回は、同じ膳系統に薄く広がっている」

 

「工程の顔ですね」

 

 俺がそう言うと、猫姉は一瞬だけ口角を上げた。肯定の合図だ。

 

「はい。食材そのものというより、保存・戻し・仕込みの線が濃い」

 

 俺は戻し甕の底を思い出す。粉の層、薄い膜、まとめ戻し。量が少ないのに濃い水。火を入れても抜けない重さ。料理の側から見ても、答えは同じ方向を指している。

 

「腐ったなら、火で多少は丸くなります」

「でも、これはならない」

 

 猫姉は、そこで一度言葉を切った。断定はまだだ。だが、選択肢はほぼ残っていない。残るのは――性質。

 

 器の縁に残った水滴を、猫姉は紙で拭い、静かに畳んだ。

 

「次、確かめます」

 

 短い一言だった。

 “何を”確かめるかは、もう分かっている。

 火だ。

 猫姉は、紙包みから戻し水をほんの一滴だけ落とし、手近な器の縁で温めた。火を当てるほどではない。湯気が立つか立たないか、その境目だ。匂いが立ち上がるなら、この程度で出る。俺は黙って見ていた。料理人の勘は、ここから先で裏切られるか、肯定される。

 

「……変わりませんね」

 

 猫姉の声は平坦だった。腐敗なら、ここで匂いが跳ねる。甘さが崩れ、酸が立つ。だが、水は静かなまま、重さだけを残している。煮ても、蒸しても、丸くならないタイプの“残り方”だ。

 

「火を入れても、抜けない」

 

 俺がそう言うと、猫姉は小さく頷いた。

 

「腹を壊す腐敗なら、匂いで分かることが多いです」

「でも今回は、“腐った”より“鈍る”」

「しかも、加熱して出ている」

 

 短い言葉が、順に積み重なる。断定はまだしない。だが、選択肢は削れていく。

 

 俺は戻し甕の底を思い出す。粉の層。薄い膜。まとめ戻し。時間が味方をするやり方。火で誤魔化せない水の顔。料理としては、最悪の部類だ。

 

「盛った毒じゃないですね」

 

 俺の言葉に、猫姉は首を振らなかった。代わりに、視線を落とし、はっきりと言う。

 

「はい。盛った毒ではありません」

「材料に“残った”ものです」

「……黴が残した毒」

 

 名称は要らない。性質だけで十分だ。火で死なない。繰り返し摂れば、薄く、確実に残る。だから広がる。だから遅れて来る。

 

 猫姉は、器を元の位置に戻した。音を立てない。その仕草が、確信の合図だった。

 

「これは毒です」

「偶然ではありません」

 

 俺は息を吸った。派手な毒じゃない。だが、日常に紛れる分、厄介だ。料理の工程と管理が、そのまま刃になる。

 

 視線が、自然と帳面の置かれている方へ向く。

 ――次は、人だ。

 猫姉は、器を片づけながら、ほんの一拍だけ黙った。結論を急がない沈黙だ。けれど、その沈黙はもう迷いじゃない。整えるための間だった。

 

「これは……毒です」

 

 低く、しかしはっきりと言った。声を張らない。周囲に聞かせないためでもあるが、断定に力を要しないからでもある。

 

「盛った毒ではありません。材料に“残った”もの」

「腐敗ではなく、鈍らせる」

「加熱しても消えない性質――だから、続けば広がる」

 

 俺は、戻し甕の底を思い浮かべた。粉の層。育った膜。まとめ戻し。火を入れても抜けない重さ。料理の側から見ても、同じ答えに辿り着く。

 

「……黴が残した毒、ですね」

 

 猫姉は小さく頷いた。

 

「名称はどうでもいいです。大事なのは性質」

「火で死なない」

「そして、“管理を知っている者”なら避けられた」

 

 その言葉で、視線の向きが変わった。甕でも、乾物でもない。人だ。

 偶然なら、ここまで揃わない。知らなければ、止められなかったとも言えない。だが、工程と性質を分かっていて、止めなかった――あるいは、使い続けた。

 

 猫姉は静かに続ける。

 

「問題は黴じゃありません」

「それを見て、通した人」

「張り替えを省き、蓋を締め、帳面を通した人です」

 

 俺は息を吸った。派手な毒より、ずっと厄介だ。日常の中で、静かに効く。だから、疑われにくい。だから、ここまで来た。

 

「次は帳面ですね」

 

「はい」

 猫姉は即答した。「いつから、誰の名義で、どの線に流したか。記録が答えます」

 

 確信は置かれた。だが、刃はまだ振るわれない。

 振るうために、次の証拠が要る。

 

 俺は頷き、視線を帳面のある方へ向けた。

 料理の事件は、工程で生まれ、記録で止まる。

 その瞬間が、すぐそこまで来ている。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。