薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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乾物庫の毒 九

 玉葉妃の不調は、ひと目で異変と断じられるものではなかった。

 

 歩みは安定している。

 言葉も途切れない。

 表情も崩れていない。

 

 ただ、話が一区切りついた直後、呼吸がほんの一拍遅れる。

 椅子に腰を下ろす際、腹部へ手が添えられる。

 その動きは、偶然にしては整いすぎていた。

 

 猫姉は一礼してから、静かに口を開いた。

 

「恐れ入ります。少し、いくつかお伺いしてもよろしいでしょうか」

 

「いいわよ」

 玉葉妃は肩をすくめる。

「大したことじゃないもの。気になるなら聞いて」

 

 猫姉は一歩も詰めず、声の調子も変えない。

 

「痛みは、急に強く出ますか」

 

「ううん。食べてすぐ、というわけじゃないわ」

「少ししてから、胃のあたりが重くなる感じ」

 

「承知しました」

「その重さで、立てなくなることはございますか」

 

「そこまではないわね」

「ただ、何となく動きたくなくなるの」

 

 玉葉妃は苦笑し、軽く手を振った。

 猫姉は頷かず、次の問いへ移る。

 

「眠りについてですが、朝方でしょうか。それとも夜半に」

 

「夜の方」

「目が覚めて、そのまま浅い眠りになるわ」

 

「ありがとうございます」

 

 猫姉は一拍置いた後、言葉を選んだ。

 

「急に体調を崩す類のものではなさそうです」

 

「でしょう?」

 玉葉妃は、どこか安堵したように息を吐く。

「倒れるほどじゃないの。だから、騒ぎにするのもどうかと思って」

 

 その言葉に、猫姉は目を伏せた。

 

「かしこまりました」

「ですが、もし盛られた毒であれば、もっと早く、強く出る可能性が高うございます」

 

 玉葉妃は、少し意外そうに眉を上げた。

 

「じゃあ、誰かが狙った、って話でもないのね」

 

「現時点では、その可能性は低いかと存じます」

「むしろ、同じお膳に触れた方々に、薄く広がっております」

 

 場の空気が、静かに引き締まる。

 そこで、俺は一歩前に出て、頭を下げた。

 

「恐れ入ります、玉葉妃」

「料理の側から申し上げてもよろしいでしょうか」

 

「ええ、どうぞ」

「あなた、台所の人でしょう。そういう話、嫌いじゃないわ」

 

 少し砕けたその言い方に、俺は緊張を抑えながら続ける。

 

「香りや味付けが原因とは、考えにくいかと存じます」

「香りは隠すことは出来ますが、こうした不調を育てるのは難しゅうございます」

 

 猫姉が、こちらを見た。

 続きを促す視線だ。

 

「問題があるとすれば」

「戻し、保管、下拵えの段階です」

 

 玉葉妃は腕を組み、首を傾ける。

 

「火を入れる前、ということ?」

 

「はい」

「忙しさの中で、“今日はこれで良い”と判断してしまう場所です」

 

 猫姉が、ぽつりと口を挟んだ。

 

「判断の温度が下がるところ、ですね」

 

 俺は黙って頷いた。

 玉葉妃は、少しだけ考え込むような間を置き、微笑む。

 

「なるほどね」

「派手な毒じゃない分、厄介そう」

 

「恐れ入ります」

 猫姉が頭を下げる。

「本日は、断定は致しません」

「まずは、違和感のある場所を確認させてくださいませ」

 

「ええ、任せるわ」

「騒ぎにならないように、静かにお願い」

 

 その言葉で、胸の奥が定まった。

 今日は、裁く日じゃない。

 温度を測り直す日だ。

 

 静かな不調が残した輪郭が、次の一歩を、確かに示していた。

 玉葉妃の許しを得て、俺と猫姉は御膳房の奥へ向かった。

 通い慣れた道だが、今日は足取りが少し違う。

 火口の音も、刻みのリズムも、どこか遠い。

 

「恐れ入ります。乾物庫を拝見させてください」

 

 猫姉が、控えめに声をかける。

 庫番は一瞬だけこちらを見てから、頷いた。

 

「構いませんが……」

「勝手はさせられません」

 

「承知しております」

 猫姉は一礼する。

「確認だけです」

 

 扉が開くと、乾いた匂いが鼻を打った。

 棚に並ぶ袋。

 札。

 戻し桶が、奥にいくつか並んでいる。

 

 俺は、まず全体を見る。

 色ムラ。

 袋の軽さ。

 割れ方。

 どれも、表向きは問題ない。

 

 猫姉が一歩引いた位置で立ち止まる。

 

「私は、触りません」

「見るだけにします」

 

「分かってます、猫姉」

 

 味見もしない。

 戻し水にも指を入れない。

 その距離感が、今日は正しい。

 

 俺は戻し桶の列へ進んだ。

 一つずつ、蓋を外す。

 湯気。

 匂い。

 水面。

 

 ……四つ目で、足が止まった。

 

 見た目は、きれいだ。

 濁りも少ない。

 匂いも、強くない。

 

 だが、水面が、わずかに光る。

 油膜のように。

 だが、油の匂いはしない。

 

「……おかしい」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 庫番が眉を寄せる。

「何か?」

 

「失礼します」

 俺は、桶の縁に顔を近づけた。

「これ、油は使っていませんよね」

 

「ええ。戻しだけです」

 

 指先で、そっと水面を揺らす。

 膜が、波紋に合わせて広がる。

 切れない。

 逃げない。

 

「湯気の脂じゃない」

 

 独り言のように言う。

 猫姉が、少し身を乗り出した。

 

「断言できますか」

 

「はい」

「戻しの段階で出る“何か”です」

 

 庫番が、困ったように首を振る。

「見た目は……問題ないと思いますが」

 

「ええ」

 俺は頷いた。

「だから、厄介です」

 

 猫姉が、ため息混じりに近づく。

 

「……面倒ですね」

 

 そう言いながら、懐から紙片を取り出す。

 水面にそっと当て、膜を移す。

 紙が、わずかに光を帯びる。

 

「匂いは、弱い」

「誤魔化しやすい」

 

 猫姉は紙を折り、しまった。

 

「ですが、触ると残ります」

「きれいな水の振る舞いではありません」

 

「猫姉、この桶だけ」

 俺は底を示す。

「材料が少ないです」

 

「管理は、同じはずですか」

 

「はい」

 庫番が答える。

「……確かに、少ないかもしれません」

 

 猫姉が視線を上げた。

 

「他の桶は?」

 

「同じ条件です」

 

 条件は同じ。

 結果だけが違う。

 

 胸の奥で、嫌な感覚がはっきりする。

 偶然じゃない。

 だが、悪意とも言い切れない。

 

「今日は、ここまでで結構です」

 

 猫姉が静かに言った。

 

「ありがとうございます」

「後ほど、帳面を拝見したく存じます」

 

 扉を閉める直前、俺はもう一度、あの桶を振り返った。

 見た目は清潔。

 匂いも穏やか。

 

 それでも、料理人の勘が告げている。

 ――ここだ。

 

 違和感は、もう“形”になっていた。

 乾物庫を出たあと、俺たちは火口から少し離れた作業台に移った。

 人の出入りが少ない。

 匂いも、音も、落ち着いている。

 

 猫姉は、先ほど移した紙片を広げた。

 光に透かす。

 角度を変える。

 指先で、軽く叩く。

 

「……油じゃないですね」

 

 独り言に近い。

 俺は頷いた。

 

「油なら、匂いが先に立ちます」

「それに、こんな残り方はしません」

 

 猫姉は紙片を折り、半分だけ湯気に当てた。

 湿り気が戻る。

 だが、光り方は変わらない。

 

「加熱しても、消えませんか」

 

「はい」

「脂なら、広がり方が変わる」

 

 猫姉は紙片を離し、しばらく黙った。

 考える時の癖だ。

 視線が、少しだけ下がる。

 

「腐っているなら」

「匂いが先に来ます」

 

 言い切りではない。

 確認の言葉だ。

 

「でも、これは違う」

「静かです」

「体を、鈍らせる型」

 

 その表現に、胸の奥が冷えた。

 俺は、鍋の前で感じた“重さ”を思い出す。

 

「香辛料を足せば」

 俺は、あえて言った。

「差は、消せます」

 

 猫姉が、こちらを見る。

 

「消せる、ということは」

「検証にならない、ですね」

 

「はい」

 俺は短く答えた。

「消せる差は、証明にならない」

 

 少しの沈黙。

 猫姉は、紙片を畳んでしまった。

 

「誤魔化す選択肢は、捨てます」

 

 淡々とした宣言だった。

 だが、そこに迷いはない。

 

 火を入れた後も、あの“重さ”は残る。

 腐敗ではない。

 盛られた毒でもない。

 

 工程由来で、火を越えて残る。

 

 猫姉が、そこで初めて言葉を固定した。

 

「これは“事故”では起きません」

 

 断定ではない。

 だが、確信に近い。

 

 俺は、鍋の縁に手を置いた。

 料理は、もう語り終えている。

 これ以上、味で押す必要はない。

 

 視線が、自然と次へ移る。

 材料でも、腕でもない。

 

 ――通した人間だ。

 

 猫姉が顔を上げる。

 

「帳面を見ます」

「流れを、切ります」

 

 その一言で、場の向きが変わった。

 違和感は、事実になりつつある。

 

 次は、数字だ。

 そして、名前だ。

 火口に、鍋を二つ並べた。

 

 高さも、厚みも同じ。

 水量も、火の強さも揃える。

 刻みの幅まで、意識して合わせた。

 

 猫姉は、少し距離を取って立つ。

 味見はしない。

 手も出さない。

 視線だけが、鍋の縁と戻し桶を往復している。

 

「同じ献立です」

 俺は短く言った。

「工程も、時間も」

 

 猫姉は頷くだけだ。

 

 戻し水を入れる。

 片方は、澄んでいる。

 もう片方は、最初から、どこか重い。

 

 まだ煮立たせない。

 今日は、ここまででいい。

 

「猫姉」

 俺は、鍋の間に指を置いた。

「ここから先は、料理が勝手に差を作ります」

 

「ええ」

 猫姉は答える。

「だから、今日は止めます」

 

 火を落とす。

 湯気が、同時に細くなる。

 

 料理は、もう十分に語った。

 これ以上、味で押せば、結論を早めるだけだ。

 必要なのは、理由だ。

 

 猫姉が、帳面を抱え直す。

 

「次は、流れです」

「いつ、どこで、誰の判断が入ったのか」

 

 俺は、鍋を片づけながら、胸の奥の温度を確かめる。

 焦りはない。

 怒りもない。

 

 ただ、はっきりしている。

 

 これは材料の問題じゃない。

 腕の差でもない。

 通した人間の選択が、ここへ来た。

 

 帳面を開く音が、遠くで聞こえた。

 数字は嘘をつかない。

 だが、ときどき、人に裏切られる。

 

 猫姉が、ページをめくる手を止める。

 

「……ここですね」

 

 声は低い。

 だが、迷いはない。

 

 俺は、鍋から視線を上げた。

 料理の出番は、ここまでだ。

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