玉葉妃の不調は、ひと目で異変と断じられるものではなかった。
歩みは安定している。
言葉も途切れない。
表情も崩れていない。
ただ、話が一区切りついた直後、呼吸がほんの一拍遅れる。
椅子に腰を下ろす際、腹部へ手が添えられる。
その動きは、偶然にしては整いすぎていた。
猫姉は一礼してから、静かに口を開いた。
「恐れ入ります。少し、いくつかお伺いしてもよろしいでしょうか」
「いいわよ」
玉葉妃は肩をすくめる。
「大したことじゃないもの。気になるなら聞いて」
猫姉は一歩も詰めず、声の調子も変えない。
「痛みは、急に強く出ますか」
「ううん。食べてすぐ、というわけじゃないわ」
「少ししてから、胃のあたりが重くなる感じ」
「承知しました」
「その重さで、立てなくなることはございますか」
「そこまではないわね」
「ただ、何となく動きたくなくなるの」
玉葉妃は苦笑し、軽く手を振った。
猫姉は頷かず、次の問いへ移る。
「眠りについてですが、朝方でしょうか。それとも夜半に」
「夜の方」
「目が覚めて、そのまま浅い眠りになるわ」
「ありがとうございます」
猫姉は一拍置いた後、言葉を選んだ。
「急に体調を崩す類のものではなさそうです」
「でしょう?」
玉葉妃は、どこか安堵したように息を吐く。
「倒れるほどじゃないの。だから、騒ぎにするのもどうかと思って」
その言葉に、猫姉は目を伏せた。
「かしこまりました」
「ですが、もし盛られた毒であれば、もっと早く、強く出る可能性が高うございます」
玉葉妃は、少し意外そうに眉を上げた。
「じゃあ、誰かが狙った、って話でもないのね」
「現時点では、その可能性は低いかと存じます」
「むしろ、同じお膳に触れた方々に、薄く広がっております」
場の空気が、静かに引き締まる。
そこで、俺は一歩前に出て、頭を下げた。
「恐れ入ります、玉葉妃」
「料理の側から申し上げてもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
「あなた、台所の人でしょう。そういう話、嫌いじゃないわ」
少し砕けたその言い方に、俺は緊張を抑えながら続ける。
「香りや味付けが原因とは、考えにくいかと存じます」
「香りは隠すことは出来ますが、こうした不調を育てるのは難しゅうございます」
猫姉が、こちらを見た。
続きを促す視線だ。
「問題があるとすれば」
「戻し、保管、下拵えの段階です」
玉葉妃は腕を組み、首を傾ける。
「火を入れる前、ということ?」
「はい」
「忙しさの中で、“今日はこれで良い”と判断してしまう場所です」
猫姉が、ぽつりと口を挟んだ。
「判断の温度が下がるところ、ですね」
俺は黙って頷いた。
玉葉妃は、少しだけ考え込むような間を置き、微笑む。
「なるほどね」
「派手な毒じゃない分、厄介そう」
「恐れ入ります」
猫姉が頭を下げる。
「本日は、断定は致しません」
「まずは、違和感のある場所を確認させてくださいませ」
「ええ、任せるわ」
「騒ぎにならないように、静かにお願い」
その言葉で、胸の奥が定まった。
今日は、裁く日じゃない。
温度を測り直す日だ。
静かな不調が残した輪郭が、次の一歩を、確かに示していた。
玉葉妃の許しを得て、俺と猫姉は御膳房の奥へ向かった。
通い慣れた道だが、今日は足取りが少し違う。
火口の音も、刻みのリズムも、どこか遠い。
「恐れ入ります。乾物庫を拝見させてください」
猫姉が、控えめに声をかける。
庫番は一瞬だけこちらを見てから、頷いた。
「構いませんが……」
「勝手はさせられません」
「承知しております」
猫姉は一礼する。
「確認だけです」
扉が開くと、乾いた匂いが鼻を打った。
棚に並ぶ袋。
札。
戻し桶が、奥にいくつか並んでいる。
俺は、まず全体を見る。
色ムラ。
袋の軽さ。
割れ方。
どれも、表向きは問題ない。
猫姉が一歩引いた位置で立ち止まる。
「私は、触りません」
「見るだけにします」
「分かってます、猫姉」
味見もしない。
戻し水にも指を入れない。
その距離感が、今日は正しい。
俺は戻し桶の列へ進んだ。
一つずつ、蓋を外す。
湯気。
匂い。
水面。
……四つ目で、足が止まった。
見た目は、きれいだ。
濁りも少ない。
匂いも、強くない。
だが、水面が、わずかに光る。
油膜のように。
だが、油の匂いはしない。
「……おかしい」
思わず、声が漏れた。
庫番が眉を寄せる。
「何か?」
「失礼します」
俺は、桶の縁に顔を近づけた。
「これ、油は使っていませんよね」
「ええ。戻しだけです」
指先で、そっと水面を揺らす。
膜が、波紋に合わせて広がる。
切れない。
逃げない。
「湯気の脂じゃない」
独り言のように言う。
猫姉が、少し身を乗り出した。
「断言できますか」
「はい」
「戻しの段階で出る“何か”です」
庫番が、困ったように首を振る。
「見た目は……問題ないと思いますが」
「ええ」
俺は頷いた。
「だから、厄介です」
猫姉が、ため息混じりに近づく。
「……面倒ですね」
そう言いながら、懐から紙片を取り出す。
水面にそっと当て、膜を移す。
紙が、わずかに光を帯びる。
「匂いは、弱い」
「誤魔化しやすい」
猫姉は紙を折り、しまった。
「ですが、触ると残ります」
「きれいな水の振る舞いではありません」
「猫姉、この桶だけ」
俺は底を示す。
「材料が少ないです」
「管理は、同じはずですか」
「はい」
庫番が答える。
「……確かに、少ないかもしれません」
猫姉が視線を上げた。
「他の桶は?」
「同じ条件です」
条件は同じ。
結果だけが違う。
胸の奥で、嫌な感覚がはっきりする。
偶然じゃない。
だが、悪意とも言い切れない。
「今日は、ここまでで結構です」
猫姉が静かに言った。
「ありがとうございます」
「後ほど、帳面を拝見したく存じます」
扉を閉める直前、俺はもう一度、あの桶を振り返った。
見た目は清潔。
匂いも穏やか。
それでも、料理人の勘が告げている。
――ここだ。
違和感は、もう“形”になっていた。
乾物庫を出たあと、俺たちは火口から少し離れた作業台に移った。
人の出入りが少ない。
匂いも、音も、落ち着いている。
猫姉は、先ほど移した紙片を広げた。
光に透かす。
角度を変える。
指先で、軽く叩く。
「……油じゃないですね」
独り言に近い。
俺は頷いた。
「油なら、匂いが先に立ちます」
「それに、こんな残り方はしません」
猫姉は紙片を折り、半分だけ湯気に当てた。
湿り気が戻る。
だが、光り方は変わらない。
「加熱しても、消えませんか」
「はい」
「脂なら、広がり方が変わる」
猫姉は紙片を離し、しばらく黙った。
考える時の癖だ。
視線が、少しだけ下がる。
「腐っているなら」
「匂いが先に来ます」
言い切りではない。
確認の言葉だ。
「でも、これは違う」
「静かです」
「体を、鈍らせる型」
その表現に、胸の奥が冷えた。
俺は、鍋の前で感じた“重さ”を思い出す。
「香辛料を足せば」
俺は、あえて言った。
「差は、消せます」
猫姉が、こちらを見る。
「消せる、ということは」
「検証にならない、ですね」
「はい」
俺は短く答えた。
「消せる差は、証明にならない」
少しの沈黙。
猫姉は、紙片を畳んでしまった。
「誤魔化す選択肢は、捨てます」
淡々とした宣言だった。
だが、そこに迷いはない。
火を入れた後も、あの“重さ”は残る。
腐敗ではない。
盛られた毒でもない。
工程由来で、火を越えて残る。
猫姉が、そこで初めて言葉を固定した。
「これは“事故”では起きません」
断定ではない。
だが、確信に近い。
俺は、鍋の縁に手を置いた。
料理は、もう語り終えている。
これ以上、味で押す必要はない。
視線が、自然と次へ移る。
材料でも、腕でもない。
――通した人間だ。
猫姉が顔を上げる。
「帳面を見ます」
「流れを、切ります」
その一言で、場の向きが変わった。
違和感は、事実になりつつある。
次は、数字だ。
そして、名前だ。
火口に、鍋を二つ並べた。
高さも、厚みも同じ。
水量も、火の強さも揃える。
刻みの幅まで、意識して合わせた。
猫姉は、少し距離を取って立つ。
味見はしない。
手も出さない。
視線だけが、鍋の縁と戻し桶を往復している。
「同じ献立です」
俺は短く言った。
「工程も、時間も」
猫姉は頷くだけだ。
戻し水を入れる。
片方は、澄んでいる。
もう片方は、最初から、どこか重い。
まだ煮立たせない。
今日は、ここまででいい。
「猫姉」
俺は、鍋の間に指を置いた。
「ここから先は、料理が勝手に差を作ります」
「ええ」
猫姉は答える。
「だから、今日は止めます」
火を落とす。
湯気が、同時に細くなる。
料理は、もう十分に語った。
これ以上、味で押せば、結論を早めるだけだ。
必要なのは、理由だ。
猫姉が、帳面を抱え直す。
「次は、流れです」
「いつ、どこで、誰の判断が入ったのか」
俺は、鍋を片づけながら、胸の奥の温度を確かめる。
焦りはない。
怒りもない。
ただ、はっきりしている。
これは材料の問題じゃない。
腕の差でもない。
通した人間の選択が、ここへ来た。
帳面を開く音が、遠くで聞こえた。
数字は嘘をつかない。
だが、ときどき、人に裏切られる。
猫姉が、ページをめくる手を止める。
「……ここですね」
声は低い。
だが、迷いはない。
俺は、鍋から視線を上げた。
料理の出番は、ここまでだ。