壬氏は、最後の報告書を閉じた。
音は、ほとんど立てなかった。
後宮の夜は静かだ。
何かが解決した時より、
何も終わっていない時の方が、
こうして静まる。
「……やはり、そこか」
呟きは、独り言に近い。
机の上には、二つの証言が並んでいる。
猫猫の観察。
マオの料理の違和感。
どちらも、直接「犯人」を指してはいない。
だが、組み合わせると、輪郭が浮かび上がる。
体調を知り得る立場。
料理の工程に間接的に影響を与えられる位置。
自らは手を汚さず、
“切り方”という曖昧な指示だけを残す。
「……目立たない男だ」
壬氏は、記憶を辿る。
声を荒げることもなく、
前に出ることもなく、
だが、確実に“繋ぎ役”として存在していた人物。
調べは、すでに入っていた。
そして――
結果も、届いている。
「……自害、か」
報告にあった文字を、
もう一度だけ思い返す。
部屋の隅で、
静かに首を括っていたという。
争った形跡はない。
遺書もない。
証拠も、動機も、
すべて本人と共に消えた。
後宮では、珍しい話ではなかった。
「……逃げ切ったな」
誰に向けた言葉でもない。
高順が、一歩前に出る。
「これ以上は、
追えません」
「分かっている」
壬氏は、即答した。
証拠がない以上、
誰かを裁くことはできない。
そして、
裁けない真実ほど、
後宮にとって厄介なものはない。
「事件は、未解決だ」
壬氏は、そう結論づけた。
「表向きはな」
高順は、何も言わない。
肯定も否定もしない。
それが、この場所の答えだ。
壬氏は、ふと視線を上げる。
「……今回の件」
「はい」
「毒ではなかった。
薬でもなかった」
指で、机を軽く叩く。
「料理だ」
高順が、静かに頷く。
「想定外でした」
「だからこそ、
次は起こり得る」
壬氏の声は、低い。
「料理は、
誰にでも口に入る」
「制限しにくい」
「誤魔化しやすい」
一つずつ、言葉を並べる。
「今回のように、
“殺さずに奪う”手口は、
これからも使われる」
高順は、理解した。
「……料理の知識が、
必要になりますか」
「深いものがな」
壬氏は、迷いなく答えた。
「表の料理人では足りない」
そして、
自然と一人の顔が浮かぶ。
名を名乗らず、
腕を誇らず、
ただ“人を助ける料理”を作った男。
「……マオ」
その名を、口に出す。
「彼を、
後宮に置く」
高順は、驚かない。
むしろ、
ようやくか、という顔だった。
「名目は?」
「臨時の料理人。
信頼できる者として」
一拍。
「正体は、伏せたままだ」
「御意」
壬氏は、立ち上がる。
事件は、終わっていない。
犯人は、死んだ。
だが、
仕組みは、残った。
だから、
備えが必要だ。
「……猫猫と、
あの料理人」
壬氏は、静かに言った。
「二人とも、
自覚がなさすぎる」
高順は、心の中で同意した。
それが、一番厄介なのですが。
壬氏は、回廊の先を見る。
後宮は、今日も変わらない顔をしている。
だが、その裏で――
確実に、次の火種は生まれている。
それを見逃さないために。
壬氏は、
“料理人”を、
盤上に残すことを選んだ。
事件は、未完。
だが、
物語は、ここから続いていく。