薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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氷室の甘露 壱

 炊事場の火が落ちて、鍋の縁に残った湯気が薄くなる。濡れ布巾で台を拭き、包丁を水にくぐらせた。刃を返すたび、指先に冷たさが吸い付く。外は熱いのに、厨房だけは別の季節みたいだ。

 

「……マオ」

 

 振り向くと猫姉が立っていた。無表情はいつも通り。でも袖口がきっちり結ばれていて、出歩く用の格好だ。猫姉がこの格好のときは、大体ろくでもない。

 

「あれ、猫姉? どうしたんだって。その顔、もしかして面倒事になってる」

「その通り。梨花妃さまに呼ばれたのよ」

「えっ、それって俺なの」

「今回は私も呼ばれて、あんたも連れてきて欲しい感じ」

「ついで扱いなんだ」

「今回は料理に関係してるし。そういう意味では、あんたが頼りになるからね」

 

 猫姉の言い方は淡い。褒めてるのか切ってるのか分からない。分からないけど、断れない感じだけは分かる。

 

「口が軽くなるからね。ほら、さっさと片づけて、ちゃんと手を洗ってよ。爪の間まで」

「分かったよ、猫姉」

 

 水桶で指をこすり、袖を直す。猫姉の歩幅は小さいのに速い。並んで歩くと、猫姉は横目だけ寄こした。

 

「余計なこと言わないでよ、マオ」

「猫姉にそれ言われると、逆に不安になる」

「不安で黙れるなら助かる」

 

 廊下へ出ると、湿った熱が肌にまとわりつく。簾の影が床に落ち、光が細く揺れている。遠くで水を運ぶ足音。鼻に香が淡く刺さった。

 

 梨花妃さまの居所は、風の通り道にあった。簾の隙間から涼しい影が差し、室内の空気だけが少し軽い。卓の上に陶の鉢。縁に水滴が粒になって並び、ひとつ落ちて、畳に小さな点を残した。

 

 座の奥、梨花妃さまが扇を持っている。扇が一度だけ揺れ、止まる。止まった瞬間、扇の骨が小さく鳴った。

 

「猫猫。来てくれて助かるわ」

「お呼びいただき、恐れ入ります。ご用件を伺います」

「氷菓を出したいの。暑気払いの、小さな席でね」

 

 鉢の中で、削った氷が蜜色の液に浮いていた。桂花が数粒、表面をゆっくり回る。見た目はきれいだ。溶けはじめの水が底に溜まり、透明な層が薄くできている。

 

「でも……少し怖いの」

「怖い、というのは」

「喉が、こう……通らなくなる感じ。痛いわけじゃないのに、息が細くなる」

 

 梨花妃さまは喉元へ指を添え、すぐ離した。扇の動きが止まったまま、視線だけが鉢の縁の水滴へ落ちる。

 

 猫姉が一歩、静かに前へ出た。声は変わらない。

 

「いつ頃ですか。ひと口目で出ましたか。冷えたものだけで強くなりますか」

「先の夏。氷室の氷を使った日だったと思う。……言いにくいのよ。食べ物が怖いなんて」

「口に出す必要はありません。型だけ伺えれば」

 

 梨花妃さまの視線がこちらへ移った。僕の手元、包丁だこ、袖口。どこを見ているのか分からない感じが、かえって背筋を正した。

 

「こちらの方は?」

「炊事場の者です。再現が得意なので」

「名前は?」

 

 息をひとつ飲み、畳に手をつく。

 

「初めまして、劉昴星と申します。よろしくお願いします」

 

 梨花妃さまの唇が、わずかに弧を描いた。

 

「ふふっ。そんなに固くならなくてもいいのよ。猫猫の幼馴染みなのだから」

「すみません。梨花妃さまの前だと、どうしても。……つい敬語になります」

「そういうことなら仕方ないわね。それに、今日は“怖くない形”にしてほしいの」

 

 扇が、もう一度だけ揺れた。風が鉢の表面を撫で、桂花が静かに向きを変える。冷気が鼻先をかすめた。匂いは弱い。けれど、甘い蜜の奥に、乾いた何かが一瞬だけ残る。

 

 猫姉が鉢を覗き込み、指先で縁の水滴を触れずに追う。

 

「氷の出所は、氷室だけですか」

「ええ。……普段は問題ないのよ」

「問題が出た条件だけ拾います。――マオ」

「うん」

「同じ甘露を作って。氷だけ変える」

「任せて。猫姉」

 

 梨花妃さまが小さく頷いた。鉢の水滴がまた一つ落ちる。音はしないのに、落ちた場所だけ空気が冷えた気がした。

 

 梨花妃さまの扇が、止まったまま揺れない。鉢の縁を伝う水滴だけが、一定の間で落ちていく。

 

「梨花妃さま。喉の感じ、締まるのは“奥”ですか、“入口”ですか」

「奥のほう。飲み込む前に、行き先が細くなるみたいに」

「声は変わりました?」

「少しだけ。息が短くなるのが先だったわ」

「熱いものでも同じですか」

「熱いのは平気。冷たいと……戻るの」

 

 言い終える前に、梨花妃さまが扇の縁を親指で強く押した。爪が白い。猫姉は見ているのに、見ていない顔で続ける。

 

「ひと口目で出ましたか。二口目ですか」

「一口目。すぐ」

「量は、匙ひとつ分くらい?」

「それくらい」

「そのとき、ほかに何を食べました」

「果物を少し。あとは茶」

「器は陶ですか。銀ですか」

「陶。今日はこれと同じ」

「箸や匙は」

「木。漆は、使ってない」

「香は焚いていました?」

「……焚いてる。いつも通りよ」

 

 猫姉の質問が一つ増えるたび、空気が整っていく。梨花妃さまの視線が鉢から離れ、猫姉の口元へ移った。言葉を探す間だけ、扇が小さく揺れる。

 

 鉢の中。氷の角が溶け、透明な筋が蜜へ落ちて、色が薄くなる。鼻先に冷えが触れた。甘さの奥で、乾いた渋みがほんの一瞬だけ立つ。気のせい、と言い切れない薄さ。

 

「梨花妃さま。氷は、氷室のものだけですか」

「ええ。氷室から届く氷を削らせたわ」

「届いたあと、どこに置きました」

「侍女が……涼しい所に」

「布で包みましたか」

「包んだはず。……詳しくは、分からない」

 

 猫姉が小さく頷いた。頷きの角度が、いつもよりわずかに深い。これ以上は梨花妃さまを追い詰めない線を引いたらしい。

 

「今、試さなくても大丈夫です。条件だけ揃えます」

「それで……怖くなくなる?」

「怖さの形を、先に見ます」

 

 猫姉は鉢を見下ろしたまま、視線だけこちらへ寄こす。

 

「マオ」

「うん」

「同じ甘露を作って。氷だけ変える。氷室と、厨房の氷」

「猫姉、手伝います」

 

 言った瞬間、梨花妃さまの口元がふっと緩んだ。扇が一度、柔らかく揺れる。

 

「頼もしいわ。猫猫の幼馴染み、だったわね」

「はい。腕だけは、信じていいです」

「猫姉、それ褒めてる?」

「事実」

 

 梨花妃さまが笑みを隠すように扇を持ち上げた。水滴がまた一つ落ち、畳の点が増える。冷たさの跡だけが残って、音は何も立てない。こちらも騒がず、静かに動く番だ。

 

 盆の上で、二つの鉢が汗をかいていた。片方は厨房の氷、片方は氷室の氷。蜜は同じ温度に整えたつもりでも、削りたての冷気が縁を舐め、指先に薄い痛みが残る。

 

 梨花妃さまの前に据えると、扇が一度だけ揺れ、止まった。桂花が甘露の表面をゆっくり回る。水滴が縁でふくらみ、落ちそうで落ちない。

 

「こちらからどうぞ」猫姉が言った。「少しだけで」

 

 梨花妃さまは匙を取り、まず厨房の鉢に触れた。氷が擦れる音が小さく鳴る。ひと口。喉元には手をやらず、扇も止まらない。視線が僕の鉢へ移る。

 

「次も、いける?」

「無理はなさらず」猫姉の声が柔らかいまま硬い。

 

 氷室の鉢。匙が沈むと、溶け水が透明な筋を引いた。梨花妃さまは口元へ運び、舌先で止め、飲み込む。扇の骨が、こつ、と鳴った。

 

 喉へ指が触れる。強く押さえず、確かめるみたいに添えるだけ。息が一つ、短く切れた。目は鉢の縁の水滴を見ている。落ちた。畳に点が増える。

 

「……ここまでで」

「はい」猫姉が即座に応えた。「お水を」

 

 梨花妃さまが首を振る。扇が小さく揺れて、また止まる。唇の端が少し乾いて、舌で一度だけ湿らせた。

 

「大丈夫。騒ぐほどじゃないの」

「承知しました」猫姉は膝をつき、鉢をそっと遠ざける。「今の違和感、飲み込んだ直後ですか。それとも、少し遅れて」

「すぐ。……細くなる感じ」

「分かりました」

 

 僕は盆を引き、氷室の鉢の底を目で追った。透明な層が少し濁り、甘い匂いの奥に、乾いた渋みが残る。匙の柄が、指の汗で滑る。

 

「今日は、これで終わり」梨花妃さまが言う。「猫猫、ありがとう。あなたがいて助かった」

「恐れ入ります。原因は必ず拾います」

 

 梨花妃さまは立ち上がるでもなく、席をほどくように扇を閉じた。侍女が簾を少し下げ、光が薄くなる。会話も、そこで切れた。

 

 廊下へ出た瞬間、猫姉がこちらを見た。

 

「マオ。今の、再現できたね」

「うん。厨房のは平気で、氷室のだけ来る」

「騒がせないで済んだ」

「猫姉の手際だろ」

「次。氷の外側を調べる。舐めないで」

「……努力する」

 

 盆の上で、氷室の鉢が静かに溶けていく。落ちた水滴の跡だけが、畳に残った。

 簾の外へ出ると、熱が皮膚に戻ってきた。さっきまで薄い氷の気配がまとわりついていたせいで、廊下の空気がやけに重い。盆を抱え直すと、腕の内側に水滴が転がり、ひやりと線を引いた。

 

 猫姉は歩きながら一度も振り返らない。足音も立てない。けれど、背中の角度だけで「今は喋るな」と言っている。

 

 角を曲がり、人気の薄い渡り廊下に入ったところで、猫姉が止まった。柱の影が二人分、床に短く落ちる。猫姉は僕の盆へ目を落とし、鉢の縁に残った桂花を一粒だけ見た。

 

「……猫姉」

「言う」

 

 短い。先回りされると、口が閉じる。

 

 猫姉は視線を上げずに言った。

 

「毒の派手さではありません。型が違います」

「型……喉が締まるやつ」

「そう。熱いものでは出ない。冷えで強くなる。しかも、ひと口目で出た」

「量も少なかった」

「少ないほど厄介。混ぜた“味”は出にくい。けど、体は拾う」

 

 猫姉の指先が、自分の喉の少し下を一度だけ撫でた。触れ方が乾いている。確かめるようで、嫌がるようでもない。事実の確認だけ。

 

「じゃあ、甘露の材料じゃない?」

「材料は同じ。違いは氷」

「……氷室の」

「うん」

 

 猫姉が頷くと、盆の上の鉢が小さく揺れた。氷室の鉢のほうは、溶け水の層が少し濁っている。匂いは弱いのに、近づくと鼻の奥に乾いた渋みが残った。

 

 僕は息を整えて、頭の中に手順を並べる。火と水と、人の手の順番だ。

 

「猫姉、段取り組む。まず氷の出所を分ける」

「どう分ける?」

「厨房の氷、氷室の氷。それぞれ――」

 言いかけて、猫姉の目が「余計な言葉」を押し戻す。僕は短く切り直した。

「同じ器、同じ蜜。違いは氷だけにする。さっきと同じ」

 

 猫姉が小さく肯いた。

 

「氷室のほうは、届いた瞬間から追える?」

「追う。誰が取りに行ったか、どこに置いたか。布で包んだか、容器は何か。置き場の風通し。……氷は溶けるから、時間も」

「帳面も」

「猫姉は帳面?」

「私は帳面と人の流れ。お前は氷の扱いと味」

 

 役割が、そこでぴたりと噛み合った。猫姉が薬の言葉で道を引き、僕が台所の手でそれを辿る。幼馴染みの癖は、こういう時だけ便利だ。

 

 猫姉は廊下の向こうを見た。風が簾を揺らし、光が線になる。猫姉の横顔はいつも通りなのに、目だけが少しだけ鋭い。

 

「梨花妃さまの前では、大事にするな」

「分かってる。静かに潰す」

「静かに直す、ね」

「……はいはい。直す」

 

 猫姉が歩き出す。僕も盆を抱えてついていく。氷室の鉢から、また水滴が落ちた。畳じゃない、板の上。音が小さく鳴る。

 

 その音が、合図みたいに聞こえた。派手じゃない。けれど、確かに始まった。

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