薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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氷室の甘露 参

 氷室の前に立った瞬間、夏の熱気が喉の奥でふっと途切れた。扉の継ぎ目から冷気が漏れて、廊下の板が湿っている。足裏が少しだけ吸い付く。

 

 猫姉は詰所へ入ると、声を立てずに言った。

 

「出納帳、見せてもらえますか」

 

 氷室番が頷くまでの間に、机の上へ厚い帳面が置かれた。乾いた墨の匂いが鼻をくすぐって、紙の端が指にざらついた。俺は一歩引いて、猫姉の手元を見守る。

 

 頁がめくられる。ぱら、ぱら、と乾いた音だけ。

 

 猫姉の目は文字を追ってない。行のあいだに残った白だけを、まっすぐ見てる。削れたところだけ紙の毛羽が光って、そこだけ妙に目につく。

 

 猫姉の指先が、空白の端で止まった。爪が紙を傷つけない程度に触れて、すぐ離れる。

 

「うん……ここ、ちょっと変だね」

 

「猫姉、そこが気になる?」

 

「書き忘れにしては、きれいすぎる」

 

 猫姉は頁を少し傾け、光の当たり方を変えた。抜けた白の下に、かすかな艶の線が走っている。乾ききる前に触ったみたいな跡が、薄く残っていた。

 

 氷室番が喉を鳴らす。

 

「その……帳面係が――」

 

 猫姉は顔を上げる。声は静かなままなのに、相手の返事だけがだんだん短くなる。

 

「帳面係って、誰ですか」

 

「交代で……」

 

「交代って、何人で回してるの?」

 

「三人です」

 

 猫姉が小さく頷いた。詰所の空気まで、氷室の冷えにじわじわ染まっていく。俺は帳面の別の列へ目を落とす。日付は揃ってる。搬出の数も並んでる。なのに、白が残る行だけ妙に整って見える。急いで書いた手じゃない。

 

「猫姉、ここだけ筆圧が軽い」

 

 言ってから、口を閉じた。ここで決めつけたら、俺の手順が濁る。だから、まだ言わない。

 

 猫姉は俺を見て、口の端だけでほんの少し笑った。

 

「気づいた? マオ、あんた目がいいね」

 

「褒めてる?」

 

「事実」

 

 猫姉の指が、空白の前後の数字を拾っていく。止まり方が一定で、迷いがない。

 

「この日、氷の出入りがやけに多い」

 

「搬出、増えてるな」

 

「これだけ出してるのに、内訳が書いてない」

 

 柔らかい声なのに、言葉だけは芯が硬い。落ちたところが、きちんと残る。猫姉は頁を戻していく。墨の列より、筆の癖――止まりや、はね――を拾うみたいに。

 

 俺の視線は、白へ戻る。削ったみたいな白が、きれいすぎて気持ち悪い。

 

 溶けはじめの一滴を思い出す。あれも表面だった。帳面の白も同じで、まだ触れられないまま残っている。

 

 猫姉が顔を上げた。

 

「マオ。氷室番の交代時間、聞ける?」

 

「任せて。箱の便も確認する。布、誰が替えたかも」

 

「うん。あんたは“物のほう”を見て。私は“人の流れ”を追う」

 

 猫姉は最後にもう一度、空白へ視線を止めた。そこだけ、紙が冷えて見える。

 

 俺は帳面を閉じる音を聞きながら、氷室の扉へ目を向けた。冷気が、まだ廊下に残っている。

 

 帳面を閉じる音が、詰所の冷えに吸い込まれた。

 

 猫姉はすぐに開き直す。出納帳と、控え札。机の上に並べるだけで、場の空気が整う。俺は数字に強くない。けど、猫姉の指が止まる場所は、だいたい“白い”。

 

「数は帳面通りだね」

 

 猫姉が言って、札の端を指で押さえた。紙が少し浮く。押さえた瞬間に落ち着く。

 

「合ってるってこと?」

 

「うん。そこだけは、きれいに合ってる」

 

 きれいに、という言い方が引っかかった。俺は黙って頁の同じ行を見る。搬出の数字。日付。宛先。全部そろっている。そろっているのに――その下に、妙に整った“抜け”がある。

 

 猫姉の視線が、そこへ落ちた。

 

「……中でいったん置き直した記録がない」

 

「置き直し?」

 

 氷室番が口を開きかけて、言い直すみたいに息を吸う。

 

 猫姉は声を荒げない。指先で、帳面の空いている段を一度だけ叩いた。

 

「搬出の前に、ちょっと置くでしょ。溶けるから。場所を替えるとき」

 

「それ、帳面に書く決まりは……」

 

「決まりなら、最初から欄がない。これは欄があるのに白い」

 

 氷室番の目が、机の角へ落ちた。落ちたまま戻らない。猫姉はそこを追わない。追わないのに、相手の肩だけが固くなる。

 

 猫姉は別の紙片を引き寄せた。交代の時刻と、受け渡しの印。墨の濃い日が混じっている。

 

「交代は、卯の刻と酉の刻でしたね」

 

「はい。毎日、だいたい……」

 

「“だいたい”」

 

 猫姉が小さく復唱しただけで、氷室番が咳払いをした。

 

 猫姉は印の濃いところを指でなぞり、俺のほうを見た。

 

「マオ。交代の前後だけ、ここが落ち着いてない」

 

「帳面のほう?」

 

「帳面だけじゃない。現場も」

 

 猫姉は机を離れ、俺の袖をちょいと引く。

 

「行くよ」

 

「猫姉、置き場を見る」

 

「うん。あんたの目で」

 

 

 

 氷室の扉を開けると、冷気が頬を撫でた。灯りが石壁に吸われて、奥が暗い。布に包まれた氷が列になり、床のところどころが白く曇っている。

 

 俺はしゃがんで、床板の継ぎ目を見る。霜は均一じゃない。厚いところと薄いところ。水の筋が乾いた跡が、細く残っている。

 

「……猫姉、こっち」

 

 指で示すと、猫姉が寄ってくる。息をかけない距離で床を見る。視線が霜の切れ目で止まった。

 

「跡、残ってるね」

 

「うん。角がある。布の縁が当たった感じ」

 

 床の一角だけ、擦れたみたいに艶が出ている。霜が乗り切らず、木目が覗いていた。そこから先へ、細い水の筋が伸びる。

 

「最近、動かした」

 

 俺が言うと、猫姉は頷かずに、もう一つ先を見る。

 

「どっちから、どっちへ」

 

 霜の厚みを目で追う。厚いところは、長く冷えた場所。薄いところは、さっきまで何かが塞いでいた場所。

 

「今はここ。……元は、こっちだ」

 

 猫姉が氷室番に視線を向けた。

 

「交代のとき、この辺、触ります?」

 

「いえ……普通は奥の列だけを」

 

「“いつも通り”ってやつね」

 

 猫姉の声は柔らかい。けれど、言葉の置き方だけが硬い。氷室番が、もう一度だけ目を泳がせた。

 

 俺は奥の列も見た。霜がきれいに乗っていて、動かした気配が薄い。なのに入口寄りのこの一角だけ、床が落ち着かない。

 

「猫姉。交代のときだけ、ここで一回“置いてる”」

 

「帳面に残らない置き方、ってこと」

 

 猫姉は床の艶へ指を寄せ、触れずに距離だけ測った。

 

「マオ。箱の便と布とかは洗える?」

 

「やってみるよ」

 

「とりあえずは、人の流れは私が追うから、マオは物の流れを確認して」

 

 氷室の冷気が足首からじわりと上がる。俺は床の筋をもう一度だけ辿った。溶け始めの一滴みたいに、答えは“表”にしか残らない。

 

 床の艶を追っていくと、氷室の隅で足が止まった。棚の影が濃い。そこに、布の包みが押し込まれている。

 

 俺はしゃがんで、指先で布をつまんだ。

 

 濡れている。冷たいはずなのに、布だけがぬるりと指にまとわりつく。結び目は甘く、紐が半分ほどほどけて、口がわずかに開いていた。

 

「猫姉、これ……」

 

 差し出す前に、猫姉の目が床を拾う。霜の切れ目、水の筋、棚の脚の影まで。包みには、まだ触れない。

 

「ここ、仮で置いてるね」

 

「氷の“一回置き”と同じ場所だな」

 

 猫姉がようやく布の端をつまむ。爪先だけで、そっと。湿った繊維が黒く見える。氷室の冷えの中で、その布だけ生き物みたいだ。

 

「開けるよ、マオ」

 

「うん。ゆっくり」

 

 結び目がほどける。中から出てきたのは、干した薄片だった。魚の干物みたいに平たい。けれど肉じゃない。色がくすんで、端がぱさついている。

 

 匂いは弱い。冷えが鼻を鈍らせる。――それでも、喉の奥が一度きゅっと細くなった。

 

 猫姉が、喉元に指を添えてすぐ離した。

 

「……喉を締めるやつ」

 

「薬か」

 

「薬局の仮置きだと思う。封が甘い」

 

 猫姉は薄片を戻し、布の内側を見せた。繊維が濡れて、ところどころ透けている。そこに薄い茶色の滲みが残っていた。

 

 ぽとり。

 

 棚板の裏から水滴が落ち、包みの角をさらに濡らした。濡れた布から、細い筋が床へ走る。俺はその筋を目で追う。筋は棚の影を抜けて、入口寄りの一角へ向かっていた。

 

 ――さっき見つけた、落ち着かない置き場。

 

 布に包まれた氷の表面が、うっすら濡れて光っている。布の縁が黒ずみ、溶け始めの水が外側を伝っていた。

 

「……ここに、混じってたんだな」

 

 俺が言うと、猫姉は頷きもせず、包みの口をもう一度見た。開ききったままの隙間。そこから出た滲み。床の筋。氷の濡れ。

 

「氷は外から溶ける」

 

 短く言って、猫姉は口を閉じた。続きを説明しない代わりに、俺の手元を見る。

 

「マオ。氷の“外”だけ、確かめて」

 

「分かった」

 

 俺は氷の布の端をめくり、表面の霜のところだけを見た。白がくすみ、薄い影がある。指でこすらず、目で拾う。あの甘露の渋みが、ここに立っていた気がした。

 

 猫姉が包みを持ったまま、氷室番へ目を向ける。声は柔らかい。

 

「この包み、誰がここに置いたか分かります?」

 

 氷室番の目が一度、棚の影へ落ちた。戻ってこない。喉が鳴る。返事が遅れる。

 

 俺は床の水の筋を見た。線は嘘をつかない。足音より静かに、人の手を指す。

 

 棚の影で、包みを結び直した。

 

 指先に残る湿り気が気持ち悪い。冷たい場所なのに、布だけが生ぬるい。猫姉は包みを抱えたまま、黙って氷の列を見ている。

 

 俺は氷へ戻った。布の縁が黒ずんでいる。そこから先、霜の白の上に透明な筋が一本走っていた。途中で細く分かれて、氷の角へ伸びている。

 

 触らずに、顔だけ寄せる。息は止める。冷気が鼻の奥をつまんで、喉が一度だけきゅっと狭くなった。

 

「猫姉……これ、筋ができてる」

 

 猫姉の視線が筋をなぞる。頷かない。代わりに、棚板の裏を見上げた。

 

 水滴がいくつもぶら下がっている。揺れて、落ちる。落ちた水が布の包みの角を濡らし、そのまま床へ細い線を引いた。

 

 その線は、氷の“置き直し”の場所まで続いている。

 

「落ちて、濡れて……そのまま流れてくる」

 

 俺が言うと、猫姉は包みの口を少しだけ見せた。結び目の内側、布が透けるほど濡れたところ。茶色い滲みが残っている。

 

「封が甘いね」

 

「薬が、しみ出た?」

 

「少し。冷えてると匂いは弱い。けど、当たれば出る」

 

 猫姉は喉元に指を添え、すぐ離した。表情は変わらないのに、その仕草だけがはっきりしている。

 

「喉を締めるほう?」

 

「うん。収れんのやつ」

 

 専門の言葉はそれだけで止まる。猫姉は包みを揺らさないまま、氷の表面の筋へ視線を戻した。

 

「これ、毎回ここを通ってる」

 

 俺は筋の先を追った。氷の角。外側だけ、霜が薄い。薄い下に、うっすらと影がある。甘露のときに嗅いだ渋みが、あの一滴だけ立った理由が見える。

 

「外だけ汚れる。……内側が平気だったのと同じだな」

 

「微量でも、続けば当たる。冷えた甘露は拾いやすい」

 

 猫姉の声は淡い。言葉は短い。説明に寄りかけたところで止まる。止まった分、筋のほうが勝手に喋る。

 

 俺は氷室番へ目を向けた。責めるつもりはない。けれど、ここまで揃うと逃げ道が細い。

 

「薬局の物、ここに置かれることあるのか」

 

 氷室番の目が棚の影へ落ち、戻るのが遅れた。

 

「……たまに。涼しいので」

 

「置き場に困って、ってやつだな」

 

 猫姉が出納帳の“白”を思い出すみたいに、床の線を見た。

 

「帳面に残らない置き方。部署をまたぐと、こうなる」

 

 言い切るでもなく、淡々と置く。

 

 俺の頭の中で順番がつながった。薬局が置き場に困る。涼しいから氷室に押し込む。仮に置いた包みが結露で濡れる。滲みが溶け水に混じる。氷の表面を伝って、甘露へ。

 

 誰かが混ぜたわけじゃない。通り道ができて、通った。

 

 猫姉が顔を上げた。

 

「起きるべくして起きました」

 

 その一言で、氷室の冷えが少しだけ現実になる。

 

「猫姉、どう直す」

 

「薬局には“ここに置かない”を決める。封も改めさせる」

 

 猫姉は包みを持ち直し、氷室番へ視線を向けた。

 

「氷室は、仮置きの場所を決める。勝手に置いたら、一行でいいから残す」

 

 氷室番が小さく頷いた。まだ顔は固い。でも、目は逸らさない。

 

 俺は氷の表面の筋を、最後にもう一度だけ見た。結露の道は、静かで、執拗だ。細い筋ほど、同じところを通り続ける。

 

 だからこそ、塞げる。

 

 線を引く。置き場を決める。帳面に一行残す。

 

 それだけで、この一滴は生まれなくなる。

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