薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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氷室の甘露 五

 湯気は、嘘をつかない。

 

 盆の上で揺れて、鼻先にまとわりついて、消える。熱いものは熱い。冷たいものは冷たい。喉が嫌がる前に、身体が先に分かる。

 

 だから、いきなり氷は出さない。

 

 梨花妃の居室に通されると、いつもより灯りが柔らかく見えた。簾越しの光が畳に筋をつくって、端が少しだけ滲む。風は弱い。香の匂いも控えめで、代わりに薬棚の木の匂いが薄く残っていた。

 

 猫姉は先に中へ入り、いつもの顔で一礼する。

 

「梨花妃さま。本日は、段階を踏みます」

 

 言い方が、料理の話じゃない。検分の声だ。

 

 梨花妃は座を崩さず、盆に視線を落とした。

 

「……冷菓ではないのね」

 

「はい。まずは温かいものから」

 

 俺は盆を畳に置く。椀の蓋を外すと、白い湯気がふわりと立った。葛を溶かした、とろみのある湯。表面がつるりと光って、箸で触れるとゆっくり戻る。

 

 猫姉が椀の縁を指先で軽く叩く。熱を確かめる仕草が無駄なく短い。

 

「熱すぎません。ひと口だけ、どうぞ」

 

 梨花妃の指が椀に伸びる。指先が一瞬だけ止まった。金箔の飾りより、湯気のほうが目立つ。怖い、とは言わない。でも、止まる。

 

 猫姉は見ている。目の動きが少ない分、手元が怖い。

 

 梨花妃が椀を口元に運ぶ。湯気が唇に触れて、薄く曇る。ひと口。喉が動く。飲み込む音は小さい。音より、喉の筋がすっと戻るほうが先だった。

 

 猫姉の視線が、そこに刺さる。

 

「……引っかかりは」

 

「ないわ」

 

 梨花妃が答える。声は平らで、褒める色がない。けれど、その平らさが今はありがたい。

 

 俺は盆の端に置いた小皿へ目をやる。蜂蜜を落とした、生姜の欠片。香りだけが強すぎないように、ほんの少し。甘露の怖さを思い出させたくない。

 

 猫姉が小皿を指す。

 

「次は、香りを足します。喉が反応するなら、ここで止めます」

 

「止めて」

 

 梨花妃の返事は短い。許可じゃない。命令でもない。確認だ。

 

 俺は葛湯に生姜を一欠片だけ沈める。箸で混ぜない。とろみの流れを崩したくない。表面に波がひとつ立って、ゆっくり消える。

 

 梨花妃が二口目を含む。さっきより少し長く、口の中で留めた。喉が動く。眉がわずかに寄る。寄って、すぐ戻る。

 

 猫姉が、梨花妃の手元にだけ聞こえる声で言った。

 

「苦しくなったら、止めてください」

 

「……大丈夫」

 

 返事の最後に、息が混じった。細い息。弱くない。ちゃんと吐けている。

 

 猫姉が頷く。頷きは小さい。勝ち誇らない。

 

 湯気が落ち着くころ、俺は次の盆を出した。今度は、冷たさを隠すための布を一枚多く。鉢の外側に水滴が出ていない。容器の封も、色札も、きっちり付いている。氷室の“区画の線”を越えていない氷だ。

 

 猫姉が鉢を見る。指で縁をなぞらない。目だけで、結露の筋を探す。

 

「……道がない」

 

 その一言で、胸の中の固いものが少しほどけた。

 

「外側、削ってある」

 

 言い訳みたいに聞こえないよう、声を抑える。手順の説明にしたくない。

 

 氷は、外側ほど拾う。あの一滴で学んだ。だから、薄く削って捨てる。もったいないと思うより先に、喉の細さが思い出される。

 

 鉢の中の氷は、角が立っている。削りたての面がさらりとして、光が鈍い。甘露を注ぐと、表面を滑る音が小さく鳴った。しゃり、とも言わない。さら、と流れて止まる。

 

 梨花妃の目が、鉢に吸い寄せられる。怖さが消えたわけじゃない。けれど、さっきより指が止まらない。

 

「……もう、冷いのを?」

 

「いきなりではありません」

 

 猫姉が先に答えた。声は丁寧で、温度は一定だ。

 

「今の喉の反応なら、少量なら問題ありません。ひと匙だけ」

 

 梨花妃が匙を取る。金属が鉢に触れて、かすかな音がした。氷の欠片が匙の上で滑る。甘露が薄く膜を作り、光が張る。

 

 梨花妃は、口元で一拍置いた。短い。けれど、その一拍が“前の怖さ”の名残だと分かる。

 

 猫姉は言わない。見ている。余計な声が入れば、怖さが増える。

 

 ひと匙が口に入る。

 

 唇が閉じる。喉が動く。肩がすっと落ちる。

 

 引っかかりが出ない。

 

 梨花妃の指が、膝の上で一度だけほどけた。爪先が畳を探るように動いて、止まる。呼吸が乱れない。

 

「……渋くない」

 

 それだけ言って、梨花妃は目を伏せた。大きく褒めない。喜びを盛らない。後宮の礼は、そういう形をしている。

 

 猫姉が淡々と続ける。

 

「渋みが出ていたのは表面でした。今は、そこが触れていません」

 

 説明に寄りそうなところで、猫姉は止めた。代わりに、鉢の外側へ視線を落とす。水滴がない。布が濡れていない。道ができていない。

 

 梨花妃が小さく頷く。

 

「礼を言うわ。……助かった」

 

 声は低い。軽くない。だから十分だ。

 

 猫姉が畳に手をつき、きれいに頭を下げる。

 

「再発はしません。手順を改めましたので」

 

 “改めた”の中身を語らない。語らなくていい。札と線と帳面が、もう動いている。

 

 俺は鉢の縁を見た。氷の欠片が溶けて、甘露が薄くなる。その薄さが、今は怖くない。喉が通るって、こんなに静かなんだな。

 

 梨花妃が椀を置く。置く音が、控えめに畳へ落ちた。

 

「次は……また季節が変わったころに」

 

 それは命令でも催促でもなく、空白を埋めるみたいな言葉だった。

 

 猫姉が「はい」とだけ返す。

 

 俺は、猫姉の横顔を盗み見た。眉も口元も動かない。いつも通り。だけど、目がほんの少しだけ柔らかい。

 

「猫姉、次は季節の果実で」

 

 声を小さくすると、余計に本音っぽくなる。厨房の外では言いにくい話だ。

 

 猫姉は一拍だけ置いた。目をこちらに向けないまま、短く返す。

 

「……喉が通ってからね」

 

「分かってる」

 

 盆を持ち上げると、湯気の残り香が袖に触れた。冷気は、今日は遠い。

 

 簾の向こうの光が、畳の筋を少しだけ伸ばす。道は、消える。道は、またできる。だからこそ、線を引く。札を付ける。帳面に一行残す。

 

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