湯気は、嘘をつかない。
盆の上で揺れて、鼻先にまとわりついて、消える。熱いものは熱い。冷たいものは冷たい。喉が嫌がる前に、身体が先に分かる。
だから、いきなり氷は出さない。
梨花妃の居室に通されると、いつもより灯りが柔らかく見えた。簾越しの光が畳に筋をつくって、端が少しだけ滲む。風は弱い。香の匂いも控えめで、代わりに薬棚の木の匂いが薄く残っていた。
猫姉は先に中へ入り、いつもの顔で一礼する。
「梨花妃さま。本日は、段階を踏みます」
言い方が、料理の話じゃない。検分の声だ。
梨花妃は座を崩さず、盆に視線を落とした。
「……冷菓ではないのね」
「はい。まずは温かいものから」
俺は盆を畳に置く。椀の蓋を外すと、白い湯気がふわりと立った。葛を溶かした、とろみのある湯。表面がつるりと光って、箸で触れるとゆっくり戻る。
猫姉が椀の縁を指先で軽く叩く。熱を確かめる仕草が無駄なく短い。
「熱すぎません。ひと口だけ、どうぞ」
梨花妃の指が椀に伸びる。指先が一瞬だけ止まった。金箔の飾りより、湯気のほうが目立つ。怖い、とは言わない。でも、止まる。
猫姉は見ている。目の動きが少ない分、手元が怖い。
梨花妃が椀を口元に運ぶ。湯気が唇に触れて、薄く曇る。ひと口。喉が動く。飲み込む音は小さい。音より、喉の筋がすっと戻るほうが先だった。
猫姉の視線が、そこに刺さる。
「……引っかかりは」
「ないわ」
梨花妃が答える。声は平らで、褒める色がない。けれど、その平らさが今はありがたい。
俺は盆の端に置いた小皿へ目をやる。蜂蜜を落とした、生姜の欠片。香りだけが強すぎないように、ほんの少し。甘露の怖さを思い出させたくない。
猫姉が小皿を指す。
「次は、香りを足します。喉が反応するなら、ここで止めます」
「止めて」
梨花妃の返事は短い。許可じゃない。命令でもない。確認だ。
俺は葛湯に生姜を一欠片だけ沈める。箸で混ぜない。とろみの流れを崩したくない。表面に波がひとつ立って、ゆっくり消える。
梨花妃が二口目を含む。さっきより少し長く、口の中で留めた。喉が動く。眉がわずかに寄る。寄って、すぐ戻る。
猫姉が、梨花妃の手元にだけ聞こえる声で言った。
「苦しくなったら、止めてください」
「……大丈夫」
返事の最後に、息が混じった。細い息。弱くない。ちゃんと吐けている。
猫姉が頷く。頷きは小さい。勝ち誇らない。
湯気が落ち着くころ、俺は次の盆を出した。今度は、冷たさを隠すための布を一枚多く。鉢の外側に水滴が出ていない。容器の封も、色札も、きっちり付いている。氷室の“区画の線”を越えていない氷だ。
猫姉が鉢を見る。指で縁をなぞらない。目だけで、結露の筋を探す。
「……道がない」
その一言で、胸の中の固いものが少しほどけた。
「外側、削ってある」
言い訳みたいに聞こえないよう、声を抑える。手順の説明にしたくない。
氷は、外側ほど拾う。あの一滴で学んだ。だから、薄く削って捨てる。もったいないと思うより先に、喉の細さが思い出される。
鉢の中の氷は、角が立っている。削りたての面がさらりとして、光が鈍い。甘露を注ぐと、表面を滑る音が小さく鳴った。しゃり、とも言わない。さら、と流れて止まる。
梨花妃の目が、鉢に吸い寄せられる。怖さが消えたわけじゃない。けれど、さっきより指が止まらない。
「……もう、冷いのを?」
「いきなりではありません」
猫姉が先に答えた。声は丁寧で、温度は一定だ。
「今の喉の反応なら、少量なら問題ありません。ひと匙だけ」
梨花妃が匙を取る。金属が鉢に触れて、かすかな音がした。氷の欠片が匙の上で滑る。甘露が薄く膜を作り、光が張る。
梨花妃は、口元で一拍置いた。短い。けれど、その一拍が“前の怖さ”の名残だと分かる。
猫姉は言わない。見ている。余計な声が入れば、怖さが増える。
ひと匙が口に入る。
唇が閉じる。喉が動く。肩がすっと落ちる。
引っかかりが出ない。
梨花妃の指が、膝の上で一度だけほどけた。爪先が畳を探るように動いて、止まる。呼吸が乱れない。
「……渋くない」
それだけ言って、梨花妃は目を伏せた。大きく褒めない。喜びを盛らない。後宮の礼は、そういう形をしている。
猫姉が淡々と続ける。
「渋みが出ていたのは表面でした。今は、そこが触れていません」
説明に寄りそうなところで、猫姉は止めた。代わりに、鉢の外側へ視線を落とす。水滴がない。布が濡れていない。道ができていない。
梨花妃が小さく頷く。
「礼を言うわ。……助かった」
声は低い。軽くない。だから十分だ。
猫姉が畳に手をつき、きれいに頭を下げる。
「再発はしません。手順を改めましたので」
“改めた”の中身を語らない。語らなくていい。札と線と帳面が、もう動いている。
俺は鉢の縁を見た。氷の欠片が溶けて、甘露が薄くなる。その薄さが、今は怖くない。喉が通るって、こんなに静かなんだな。
梨花妃が椀を置く。置く音が、控えめに畳へ落ちた。
「次は……また季節が変わったころに」
それは命令でも催促でもなく、空白を埋めるみたいな言葉だった。
猫姉が「はい」とだけ返す。
俺は、猫姉の横顔を盗み見た。眉も口元も動かない。いつも通り。だけど、目がほんの少しだけ柔らかい。
「猫姉、次は季節の果実で」
声を小さくすると、余計に本音っぽくなる。厨房の外では言いにくい話だ。
猫姉は一拍だけ置いた。目をこちらに向けないまま、短く返す。
「……喉が通ってからね」
「分かってる」
盆を持ち上げると、湯気の残り香が袖に触れた。冷気は、今日は遠い。
簾の向こうの光が、畳の筋を少しだけ伸ばす。道は、消える。道は、またできる。だからこそ、線を引く。札を付ける。帳面に一行残す。