包丁の音が、いつもより軽い。
ひと口サイズに揃えるだけで、こんなに神経が削れるとは思わなかった。
鶏肉を薄く切る。厚いと噛む。薄すぎると冷めた瞬間、味が飛ぶ。胡麻だれは別にして、あとから絡める。庭の風で砂が入るのが怖いから、蓋。蓋の裏に布も——と、頭の中で段取りが増えていく。
その段取りの端っこに、猫姉がいる。
台所の隅、柱にもたれて座って、何も言わずに見ているだけ。なのに、勝手に背筋が伸びる。
「ねえねえ、見て! 花の形!」
小蘭が生地を持ち上げた。白い粉がふわっと舞い、光の筋に乗って広がる。
猫姉の目だけが動いた。
小蘭の指先、粉、鼻先。
「……息、止めない。離れて」
「えっ、わ、わかった!」
小蘭が慌てて一歩下がり、手拭いで鼻を押さえる。勢いはあるけど、言われたら従う。そういうところが助かる。
その横で子翠が、木札を並べていた。
薄い板に穴を開け、紐を通して、指先でくるくる回す。楽しそうな顔が危ない。
「札、かわいくしたいなあ。葉っぱの絵とか——」
「子翠、絵は描かないで」
猫姉の声が落ちる。低いわけじゃない。淡々としているだけなのに、子翠の手がぴたっと止まった。
「えー、でも分かりやすいよ?」
「分かりやすいのは番号。戻すのも番号」
「猫猫、まじめぇ」
「戻らないのが一番困る」
子翠が口を尖らせつつも、札を机に揃え直す。
猫姉はそれ以上言わない。勝った顔もしない。視線を俺のまな板へ戻した。
俺は胡麻をすり鉢に落とす。香りが立つ。立ちすぎる前に、蓋。
そこへ、子翠の声が滑り込んだ。
「マオのは地元の味っていうか、旅の味って感じ?」
「地元も旅も、後宮じゃ同じだよ。食べやすいかどうか」
言いながら、指先が胡麻だれに触れそうになる。
味見——と思った瞬間、背中に針が刺さった。
「マオ。舐めないの」
「……分かった」
返事が短くなる。猫姉に言われると、言い訳が浮かばない。
代わりに、匙で少しだけ取り、別皿に落として舌先で確かめた。塩が立つ。砂糖は控える。冷めたときに甘さだけ残るのが嫌だ。
小蘭が粉だらけの指を見て、きょろきょろした。
「手、洗ってくる!」
走り出しかけて、猫姉の視線に止められる。
小蘭は「あっ」と言って、粉を払わずに桶へ向かった。賢い。
猫姉が俺の横に来た。近いのに、匂いが薄い。薬の匂いでも香でもない、ただの清潔な布の匂い。
「猫姉のは……粥でいいんだよな」
「ひと口でいい」
「生姜、強くする?」
「強くしない。喉が通るほう」
短い返事。
でも、昔の夜みたいな温度が混ざる。あのとろみ。葱の匂い。湯気が袖に触れる感覚。言葉にしないからこそ、手が勝手に覚えている。
俺が鍋に湯を張ると、猫姉は葱を刻み始めた。料理の手付きじゃない。薬を刻む時と同じ、無駄のない動き。刻んだ葱を小皿に寄せ、こちらへ滑らせる。
「……監視は?」
「監視しながら切る」
「器用だな」
「慣れ」
それで終わり。
小蘭が戻ってきて、手をぶんぶん振りそうになり、猫姉の目を見て、静かに拭いた。子翠は札の紐を結びながら、こっそり笑っている。
机の上に、小さな箱が四つ並ぶ。
木札が四枚。蓋が四つ。布が四枚。
猫姉が札を数える。指で叩くみたいに、一定の間で。
「交換の順番、決める」
「順番って、くじ引き?」
小蘭が目を輝かせる。
「くじは札が散る」
猫姉の一言で、小蘭が口を閉じた。
子翠が「じゃあ回す?」と軽く言い、猫姉が頷く。
「一往復ずつ。手渡し。落とさない」
俺は蓋を指で押さえ、ひとつ試しに持ち上げた。軽い。軽すぎて、風に負けそうだ。
だから、布をかける。紐で留める。
庭に出る前の準備なのに、もう庭の風がここに入ってきている気がした。
その風を、猫姉の視線が一本の線みたいに切ってくれる。
「マオ」
「ん?」
「あんた、焦ると手元が雑」
「……見てるから言うな」
「見てるから言う」
猫姉はそう言って、また隅へ戻った。
小蘭が箱を抱えて「かわいい!」と笑い、子翠が札をくるくる回し、俺は胡麻だれの香りを蓋で閉じ込める。
庭での“ひと口”は、台所のこの瞬間から始まっている。