すり鉢の底で、胡麻がひと粒だけ跳ねた。
乾いた音がして、香りが立つ。鼻の奥にすっと入って、すぐ消える。
台所の隅に猫姉がいる。
座っているだけ。なのに、手元が勝手に整う。布巾の端を揃え、匙を置く向きまで気になる。
「ねえマオ、これ、もう食べていい?」
子翠の声が軽い。軽すぎて、怖い。
振り向くと、胡麻だれの小皿を両手で持って、目だけきらきらさせていた。
「ひと口なら」
言い終える前に、猫姉の視線が刺さる。
「マオ。ひと口、って言う時は量を決める」
「……匙一つぶん」
子翠がにこっとして、匙を差し入れた。
舌先で確かめる。目が細くなる。次の瞬間、もう一回いきそうな指が動く。
「子翠、舐めないの」
「舐めてないよ? 味見だよ?」
「味見は一回」
猫姉の声は低くない。淡々としているだけ。
それなのに、子翠の手がぴたりと止まる。面白がる顔のまま、引っ込めた。
小蘭は小さな蒸し布を広げて、花巻の生地を抱えている。
粉が舞いそうで、息を吸うのも慎重になる。
「見て見て、これ、うさぎっぽくない?」
「うさぎは食べる前に手を洗う」
「はーい!」
小蘭が走り出し、猫姉の目に気づいて途中で速度を落とす。
戻ってきた手を振りそうになって、また止まる。拭く。従う。可愛い。
俺は胡麻だれを練っていく。
砂糖を控え、塩を少し。酢を落とすと、香りがふわっと丸くなる。鶏肉は冷めても固くならないよう、火を通しすぎない。庭の風に負けない味にする。
すり鉢を傾けた瞬間、違和感が来た。
底が見える。早い。
「……あれ」
棚の袋を開ける。中身が、軽い。
子翠を見る。子翠は視線を逸らさない。逸らさないまま、笑う。
「えへ」
「子翠」
「だってさ、止められなかったんだもん。おいしかったし」
怒る気が削がれる言い方だった。
猫姉は言葉を足さない。子翠の指先と、空の袋と、俺のすり鉢を同じ目で見ている。
小蘭が不安そうに覗き込む。
「胡麻、なくなっちゃったの?」
「なくなってない。足りないだけ」
口に出すと、余計に足りない気がする。
庭弁当会の看板になる味だ。ここで崩したくない。
棚の奥に落花生の袋がある。
香りは違う。けど、寄せられる。粗く砕けば、胡麻の粒感に似る。舌に残る油も、冷めた時に嫌な重さになりにくい。
猫姉が短く言った。
「香り、強くしないで」
「分かってる」
落花生を乾いた鍋で軽く煎る。焦がさない。色が変わる手前で止め、すり鉢に落とす。
胡麻と合わせると、香りが少しだけ前に出る。そこへ白胡椒をほんのひとつまみ。尖らせず、輪郭だけ作る。
子翠が目を丸くする。
「それ、地元の味?」
「今ここで作った味」
「かっこいい!」
「かっこよくない。黙ってて」
鶏肉を和える。指で触れない。箸で返す。
たれが薄くまとい、艶が出る。香りが立ったところで蓋をする。布をかける。紐を結ぶ。
猫姉がこちらを見た。頷きは小さい。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
小蘭が手を差し出す。
「ねえ、味見していい? ひと口!」
「匙一つぶん」
「うん!」
子翠がすぐ横で言った。
「……二つぶん?」
「子翠は一つ」
「えー」
「えーじゃない」
猫姉の声が落ちる。子翠が笑いを噛み殺す。小蘭が肩を揺らす。
台所の空気が、外に出られない日々より少しだけ明るい。
庭へ行く前に、もう一回だけ桶を替えた。
水の音が静かに鳴る。猫姉の監視は、怒鳴らないまま、ちゃんと日常を守っている。