庭の木陰は、思ったより涼しかった。
葉が擦れる音がして、陽の筋が畳んだ敷物の端を行ったり来たりする。
小蘭が重箱を抱えて先に座り、子翠は木札を指で弾きながら落ち着きなく周りを見回していた。
猫姉は、まず桶を置いた。水面が揺れて、光が跳ねる。
「手。先に」
「はいっ」
小蘭が素直に手を出す。子翠も真似る。
指先の水滴を払おうとして、猫姉の視線に気づき、静かに布へ押し当てた。
「猫姉、準備いい?」
「順番を決める」
猫姉の声は小さい。庭の音に混ざって、余計に鋭く聞こえる。
「順番? くじ?」
「くじは散る。ひと口ずつ。温いのから」
子翠が首を傾げた。
「温いの? 弁当なのに?」
「弁当でも、喉は喉」
猫姉がそう言って、こちらを見る。逃げる暇がないやつ。
小椀を四つ並べ、蓋を少しずらす。湯気はほとんど立たない。熱すぎない葛粥。生姜は控えめ、葱は香りだけ残した。
匙を置くと、木が器に触れて小さく鳴った。
「……まず、これ。ひと口でいい」
小蘭が恐る恐る匙を取る。口に入れて、喉が動く。肩が少し落ちた。
子翠は勢いよく飲み込みかけて、途中で止める。猫姉の目を見たからだ。
「子翠、急がない」
「見られてると、ゆっくりになるね」
「そう」
猫姉の返事はそれだけ。勝った顔はしない。
次に重箱の蓋を開ける。布を持ち上げると、風がひとつ入りそうになり、すぐ蓋で返した。
砂の匂いがする庭で、香りを立てるのは短い時間だけでいい。
「交換、始めよ!」
小蘭が札を差し出す。木札の穴に通した紐が、指に絡む。
子翠が「それ、私の札だよ」と言い、すぐ笑った。遊びの笑い。
小蘭の花巻は、ちぎるとふわっと戻る。甘くない。噛むほど小麦が出る。
子翠の葉包みは香りが強いのに、庭の青い匂いに負けない。口の中に“外”が広がる感じがした。
「マオの、これ何? 胡麻……?」
小蘭が俺の鶏を見て首を傾げた。艶だけは胡麻だれ、香りは少し違う。
「胡麻が足りなくなった。落花生で寄せた」
「寄せたって何」
「食べたら分かる」
小蘭がひと口で頬を動かす。目が丸くなる。次に、もう一口行きそうになって止まった。猫姉が見ている。
「……おいしい! でも、なんか、軽い!」
「重くしない」
子翠が箸でつまみ、舌先で転がす。
「ふうん。これ、後から来るね。香りが、遅い」
猫姉が子翠を見る。子翠は肩をすくめた。
「褒めてないよ? 観察だよ?」
「観察は一回でいい」
「はいはい」
小蘭が自分の分を差し出して、俺の皿を覗き込む。
「ねえ、甘いのは? 庭って言ったら甘いの!」
子翠も乗る。
「冷たいのも欲しい。氷、ないの?」
持ってきてない。作ろうと思えば作れた。
でも、今日の庭は“外”じゃない外。欲張ると崩れる。
猫姉が、蓋を閉める手を止めずに言った。
「今日は、ここまで」
「ええ〜」
「ええ、じゃない。喉、通ってる」
小蘭が口を尖らせた。けれど、もう一度葛粥の椀に目を落として、匙をちょんと舐めるだけで終えた。
子翠は札を指でくるくる回し、諦めたふりの笑いを浮かべる。
胸の奥で、変な安心が広がった。派手なものを出さない。足すより、閉じる。
それが、今日の正解だ。
「……猫姉」
「なに」
「今日は、これでいいな」
猫姉がこちらを見ないまま、短く返す。
「うん。十分」
風がもう一度、葉を鳴らした。
重箱の蓋は閉まっている。札は手元に戻っている。
それだけで、ちゃんと日常が回っている気がした。