その呼び出しは、あまりにも唐突だった。
厨房で次の仕込みを考えていたところへ、静かに名を呼ばれた。案内された先は、過度に豪奢ではないが、空気の張りつめた一室。そこにいたのは、噂に聞く後宮の要――壬氏だった。
「突然で悪いな」
柔らかな声色だが、逃げ場のない圧がある。マオは一礼し、素直に答えた。
「いえ。何か、ご用でしょうか」
壬氏は少し間を置き、視線を向ける。その視線は値踏みではなく、観察に近い。
「今回の件で、君の料理が果たした役割は大きい」
「……そう、でしょうか。俺は、必要だと思ったことをしただけです」
「それができる人間が、どれほどいると思う?」
問いかけは穏やかだが、答えを求めてはいない。壬氏は続ける。
「事件そのものは、終わっていない。犯人は判明したが、証拠は残らず、自害によって幕引きだ。後宮では、よくある結末だがな」
マオは黙って聞いていた。料理の話ではないと悟っている。
「だが、今回明らかになったことがある。毒でも薬でもなく、“料理”で人を弱らせることができる、という事実だ」
壬氏の声が、わずかに低くなる。
「これは、今後も起こり得る。だから、備えが必要だ」
そこで、壬氏ははっきりと告げた。
「君には、後宮に留まってもらう」
一瞬、マオは言葉を失った。
「……俺が、ですか?」
「臨時の料理人という名目だ。信頼できる者として、しばらくここにいてもらう。去勢の必要はないが、自由は制限される。外部には、余計なことは知られないようにな」
淡々とした説明だった。命令に近いが、拒絶の余地がまったくないわけでもない言い方。
「理由は、分かるな?」
マオは、少し考えてから正直に答えた。
「……料理が、人に影響を与えすぎる場所だから、ですね」
壬氏は、わずかに目を細めた。
「理解が早い」
沈黙が落ちる。マオは拳を軽く握りしめた。旅の途中だった。まだ見たい味も、学びたい料理も、山ほどある。それでも――。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「俺は、政治も権力争いも分かりません。ただ、料理しかできない。それでも、役に立つんでしょうか」
壬氏は、即答した。
「だからこそだ」
そして、静かに続ける。
「君は、人を害するための料理を知らない。だが、人を助ける料理を知っている。それが、今の後宮には必要だ」
その言葉は、脅しでも誘惑でもなかった。ただの事実として語られている。
マオは、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「……分かりました」
迷いがなかったと言えば嘘になる。それでも、答えは決まっていた。
「しばらく、ここにいます。ただし」
「条件か?」
「はい。料理は、俺のやり方でやらせてください。人を助けるための料理だけは、譲れません」
壬氏は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、次の瞬間、小さく笑った。
「構わない」
その笑みは、どこか満足げだった。
「では、決まりだ。君は今日から、後宮付きの料理人だ」
そう告げられた瞬間、マオははっきりと理解した。――この場所に来たのは偶然ではなかったのだと。
旅は、まだ終わらない。ただ、道が変わっただけだ。
猫猫が呼び出されたのは、仕事の合間だった。
場所は、先ほどと同じく後宮の一室。顔ぶれを見て、今回も面倒な話だと即座に察する。壬氏、高順、そして数名の側近。空気がやけに整っている時ほど、ろくな話ではない。
「猫猫」
「なんでしょうか」
形式的に頭を下げながら、内心では警戒を強める。
「先ほど決まったことがある」
壬氏は、前置きをほとんどせずに切り出した。
「例の料理人――マオだが、しばらく後宮に留まってもらうことになった」
一瞬、猫猫は言葉を失った。
「……え?」
思わず声が出る。すぐに取り繕おうとしたが、驚きは隠しきれない。
「残る、というのは……?」
「臨時の料理人としてだ。今回の件を踏まえた判断になる」
猫猫は数秒、黙り込んだ。表情は無表情だが、頭の中では情報が一気に整理されていく。そして次の瞬間、予想外の反応を見せた。
「……それは、助かります」
高順が、わずかに目を瞬かせる。
「助かる、とは?」
「食事の質が上がるので」
即答だった。
「ここ、味気ない料理が多いんですよ。栄養重視なのは分かりますけど、正直、食べる楽しみは皆無ですし」
場が、一瞬静まる。
壬氏は、ほんの少しだけ眉を上げた。
「……随分と率直だな」
「事実ですから」
猫猫は平然としている。
「でも、マオがいるなら話は別です。ちゃんと体にいい上で、美味しくなる。回復も早くなりますし、無駄に薬を盛らなくて済みます」
そこまで言ってから、はっとしたように付け加える。
「いえ、別に料理に詳しいわけではないですけど。結果が全然違いますから」
その言葉に、壬氏と高順は視線を交わした。
高順が、静かに口を開く。
「……なるほど」
「どうかしましたか」
「いえ」
高順は首を振る。
「猫猫殿の食事に対する評価は、以前からかなり辛辣でしたので」
「不味いものは不味いですから」
悪びれもなく言い切る。
壬氏は、そこでようやく腑に落ちたように息を吐いた。
「つまり、あの料理人が関わるようになってから、評価が変わったわけだな」
「ええ。劇的に」
猫猫は、少しだけ楽しそうに言った。
「食事が“作業”じゃなくなりました」
その一言で、壬氏は完全に理解した。
猫猫が今回の件で、あれほど積極的に動いた理由。料理の変更を一手に引き受け、あの料理人を表に出さなかった理由。その根底にあったのは、単なる情や過去の縁だけではない。
「……信用しているんだな」
壬氏がそう言うと、猫猫は首を傾げた。
「信用、というより」
一拍置いてから、淡々と続ける。
「任せられる、です。少なくとも、食事に関しては」
高順は、内心で苦笑した。
料理人として、これ以上の評価はありませんな。
壬氏は、わずかに口元を緩める。
「分かった。では、今後も食事に関しては、君の意見も参考にしよう」
「助かります」
猫猫は素直に答えた。
部屋を出る直前、ふと思い出したように振り返る。
「……あ、ひとつだけ」
「何だ」
「マオ本人には、変に期待を煽らないでください。調子に乗ると、ろくなことにならないので」
その言葉に、場の空気が少し緩んだ。
猫猫が去った後、壬氏は小さく笑う。
「なるほどな」
「ええ」
高順も頷いた。
「猫猫殿の食事評価が改善した理由が、はっきりしました」
「料理で、信頼を勝ち取るか」
壬氏は、静かに結論づける。
「……ますます、興味深い男だ」
後宮に、また一つ厄介で、しかし無視できない存在が根を下ろした。
それを誰よりも自然に受け入れているのが、猫猫であることに、壬氏は少しだけ複雑な表情を浮かべていた。