皿の端に、小さく切った甘味を並べ直す。間をあける。指がぶつからないように。ひとつ取って、戻す時にも崩れないように。
その途中で、子翠の手がすっと伸びた。
「これ、もう一個だけ——」
「子翠」
猫姉の声が落ちる。鋭いというより、糸をぴんと張るみたいな声だ。
子翠の指先が皿の上で止まる。止まったまま、にこっと笑う。
「味、変わったか確かめようと思って」
「確かめなくていい。あんたの分じゃない」
「けちー」
「けちでいい」
小蘭が吹き出しかけた、その時だった。
障子の向こうで、ばたばたと足音がして、すぐに叩く音が重なった。
「先生! 先生、いますか!」
部屋の空気が一気に締まる。やぶ医者の顔つきが変わった。さっきまでの苦い顔とは別の、仕事の顔だ。
「入れ!」
障子が開いて、若い下女が一人、肩で息をして立っていた。頬が赤い。言葉が先に転ぶ。
「咳が、止まらなくて……薬を、って」
やぶ医者は立ち上がる拍子に机の端へ手をつき、湯飲みを倒しかけた。俺が先に押さえる。熱くはない。けど、机の紙にしみを作るには十分だ。
「猫姉」
「こっち」
猫姉はもう紙束を持ち上げていた。濡れそうなものを机の奥へ寄せる。空いた場所に、やぶ医者の筆と薬包紙を戻しやすい向きで揃える。説明はない。手だけが早い。
子翠と小蘭も、さすがに騒がない。小蘭は包みを抱え直し、子翠は札を袖に——入れかけて、猫姉に見られてやめた。
「子翠、札」
「はいはい、今やる」
返事は軽いのに、指はちゃんと動く。木札が重ならないよう、端を揃えて布の上に置いた。
やぶ医者は下女の喉元を見て、呼吸の音を聞き、短く指示を飛ばす。
「座らせろ。水は少し。咳き込んだら背を起こせ」
言いながら、こっちを見た。
「甘味、いったん下げろ。匂いが混ざる」
「分かった」
皿を持ち上げる。さっきまで整えていた並びが、ここで崩れる。ひと口ずつの間隔も、順番も、いったん消える。
けど、全部消す必要はない。
部屋の隅、薬棚から離れた小机へ皿を移す。布を半分だけかける。閉じきらない。湯気は要らないが、香りは飛ばしすぎたくない。湯差しも一緒に置く。戻った時、すぐ手が出せるように。
猫姉が患者の背に手を添えたまま、こっちへ目だけ寄越す。
「マオ。次に出すなら、もっと小さく」
「うん」
「ひと息で入る形」
「分かってる」
やぶ医者の声が続く。薬を量る音。匙が瓶の縁に当たる、乾いた小さな音。咳の合間に、紙を折る音。部屋の中のリズムが、さっきまでとまるで違う。
俺は小机の前で、皿を見下ろした。甘い匂いはまだある。けど今は、喜ばせる匂いじゃない。仕事の邪魔をしない場所で待たせる匂いだ。
子翠が、声を潜めて覗き込む。
「……さっきの、取らなくてよかった?」
「取ってたら、今もっと面倒だった」
「それ、猫猫っぽい言い方」
「猫姉にうつった」
小蘭が口を押さえて笑う。猫姉は振り向かないまま言った。
「笑うのは静かに」
「は、はい」
咳が少し落ち着いて、やぶ医者の肩の線がわずかに下がった。まだ苦い顔のままだ。けど、さっきより目は動いている。
段取りは崩れた。崩れたけど、手は止まってない。
こういう時のために、猫姉の“型”がある。俺は皿の上の甘味を、さらに半分に切った。