薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

74 / 100
香る客、甘い理由 壱

昼前の厨房は、火の音が細い。

 

 蒸籠の隙間から白い息がのぼり、天井近くでやわらかくほどけていく。俺は包丁の腹で葱を寄せ、次の鍋へ手を伸ばしかけたところで、小蘭の声に振り向いた。

 

「マオ、外廷からお客だって! しかもね、すっごい人らしいの!」

 

 勢いのまま飛びこんできた小蘭の後ろで、子翠が面白そうに目を細めている。猫姉は桶の水を替えながら、声だけを落とした。

 

「“すごい”じゃ分かりません。何をする人ですか」

 

「えっとね、いろんな土地を回ってきた料理人! 甘いのが得意で、暑気払いの新しいお菓子を見てほしいんだって!」

 

 猫姉の手が、そこで一瞬だけ止まった。すぐに水面へ落ちた葉を指先で拾い、桶の縁に寄せる。考えている時の癖だ。

 

「旅の料理人……」

 

 前の件から、後宮では“喉に負担が少ないこと”“出す順番を崩さないこと”まで、前より細かく見られるようになった。外廷がそこを気にして、いろんな土地の甘味を知る料理人を呼んだ――理屈は通る。通るけど、誰が来るかまでは聞いていなかった。

 

 やがて、戸口の向こうで、からりと明るい笑い声がした。聞き覚えがある。火のそばにいるのに、胸の奥だけ先に熱くなる。

 

「おいおい、香りだけで分かると思ったが、先に顔見せたほうが早えか!」

 

 その声と一緒に入ってきた男を見て、思わず口が開いた。

 

 肩が広い。腕も太い。けれど、重たさより先に、場へすっと入ってくる明るさがある。背に負った包みは大きい。その横には、見慣れた一本があった。生地をのし、叩き、形を決めるための、あの鋼の棒――鋼棍。陽の筋を受けて、鈍く光る。

 

「……シェルさん!」

 

「おう、マオ! 久しぶりだな!」

 

 鋼棍のシェルは、相変わらずの笑顔で手を上げた。懐かしい、なんて言葉にする前に、向こうから肩を叩いてくる。痛い。けど、それが妙にうれしい。

 

「背ぇ伸びたかと思ったが、そうでもねえな」

「開口一番それですか」

「ははっ、返しはちゃんと早いじゃねえか」

 

 笑いながらも、シェルさんの目はもう厨房を見ていた。蒸籠、鍋、布、蓋。ぱっと見で流しているようで、ちゃんと拾っている。いろんな土地の火と匂いを見てきたやつの、油断しない目だ。

 

 小蘭と子翠は、シェルさんの背の包みに釘付けだった。包みの合わせ目から、甘い匂いが細く漏れている。花蜜みたいに丸い甘さの奥に、果実の明るい香りが混じっていた。いい匂いだ。腹は鳴る。けど、少し前へ出すぎる。

 

「その包み、中身はお菓子?」

 小蘭がきらきらした声で言う。

 

「おう。南の町で覚えた包み菓子に、西の果実香を足してみた。いろんな土地を回ってると、うまいもんの癖が見えてくるからな」

 

 シェルさんはそう言って、包みをそっと台へ置いた。雑に見えて、置き方は丁寧だ。衝撃を殺して、布の皺まで少ない。鋼棍を振るう力強さと、点心を扱う繊細さ。その両方が、手つきに残っている。

 

「外廷の連中がさ、後宮じゃ甘いもんの出し方まで気を遣うって言うんだ。だったら、一度この目で見ときたくてな。ついでに、旅先で拾った香りの使い方も試してみたい」

 

 理由ははっきりしていた。見物じゃない。自分の菓子が、この場所で通るか確かめに来たのだ。シェルさんらしい。正面から来て、正面からぶつける。

 

 猫姉は、そこでようやくシェルさんへ目を向けた。けれど、視線が止まったのは顔じゃない。包み布の端、結び目、置いた場所、その周りの空気だ。

 

「菓子を開ける前に、一つだけ」

 

 猫姉の声はいつも通り、平らだった。シェルさんは面白そうに眉を上げる。

 

「なんだ、味見の順番か?」

「いえ。布です」

 

 小蘭が「えっ」と声を漏らし、子翠が包みを覗きこもうとして止まる。俺はその一言で、もう猫姉がどこを見ているか分かった。

 

 甘い香りは悪くない。むしろ上等だ。けれど、上等な匂いほど残る。布は覚える。箱も覚える。次に置くものへ、静かに移る。

 

 猫姉が包みの近くへ顔を寄せた。触れない。息も強く吸わない。ただ、そこにある匂いの濃さだけを測るみたいに、ほんの一拍置く。

 

「香りが強い。悪くないです」

 

 そこで言葉を切る。切ってから、布の端へ目を落とした。

 

「でも、布が覚えます」

 

 シェルさんの笑顔が、そこで少しだけ変わった。消えたんじゃない。笑ったまま、興味の色が濃くなる。試される顔だ。嫌がるんじゃなく、前に出る顔。

 

「へえ。そう来たか」

 

 その一言で、厨房の空気が変わった。

 

 ただ甘いものを見せる話じゃなくなった。ここからは、香りをどう通すか――その勝負になる。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。