昼前の厨房は、火の音が細い。
蒸籠の隙間から白い息がのぼり、天井近くでやわらかくほどけていく。俺は包丁の腹で葱を寄せ、次の鍋へ手を伸ばしかけたところで、小蘭の声に振り向いた。
「マオ、外廷からお客だって! しかもね、すっごい人らしいの!」
勢いのまま飛びこんできた小蘭の後ろで、子翠が面白そうに目を細めている。猫姉は桶の水を替えながら、声だけを落とした。
「“すごい”じゃ分かりません。何をする人ですか」
「えっとね、いろんな土地を回ってきた料理人! 甘いのが得意で、暑気払いの新しいお菓子を見てほしいんだって!」
猫姉の手が、そこで一瞬だけ止まった。すぐに水面へ落ちた葉を指先で拾い、桶の縁に寄せる。考えている時の癖だ。
「旅の料理人……」
前の件から、後宮では“喉に負担が少ないこと”“出す順番を崩さないこと”まで、前より細かく見られるようになった。外廷がそこを気にして、いろんな土地の甘味を知る料理人を呼んだ――理屈は通る。通るけど、誰が来るかまでは聞いていなかった。
やがて、戸口の向こうで、からりと明るい笑い声がした。聞き覚えがある。火のそばにいるのに、胸の奥だけ先に熱くなる。
「おいおい、香りだけで分かると思ったが、先に顔見せたほうが早えか!」
その声と一緒に入ってきた男を見て、思わず口が開いた。
肩が広い。腕も太い。けれど、重たさより先に、場へすっと入ってくる明るさがある。背に負った包みは大きい。その横には、見慣れた一本があった。生地をのし、叩き、形を決めるための、あの鋼の棒――鋼棍。陽の筋を受けて、鈍く光る。
「……シェルさん!」
「おう、マオ! 久しぶりだな!」
鋼棍のシェルは、相変わらずの笑顔で手を上げた。懐かしい、なんて言葉にする前に、向こうから肩を叩いてくる。痛い。けど、それが妙にうれしい。
「背ぇ伸びたかと思ったが、そうでもねえな」
「開口一番それですか」
「ははっ、返しはちゃんと早いじゃねえか」
笑いながらも、シェルさんの目はもう厨房を見ていた。蒸籠、鍋、布、蓋。ぱっと見で流しているようで、ちゃんと拾っている。いろんな土地の火と匂いを見てきたやつの、油断しない目だ。
小蘭と子翠は、シェルさんの背の包みに釘付けだった。包みの合わせ目から、甘い匂いが細く漏れている。花蜜みたいに丸い甘さの奥に、果実の明るい香りが混じっていた。いい匂いだ。腹は鳴る。けど、少し前へ出すぎる。
「その包み、中身はお菓子?」
小蘭がきらきらした声で言う。
「おう。南の町で覚えた包み菓子に、西の果実香を足してみた。いろんな土地を回ってると、うまいもんの癖が見えてくるからな」
シェルさんはそう言って、包みをそっと台へ置いた。雑に見えて、置き方は丁寧だ。衝撃を殺して、布の皺まで少ない。鋼棍を振るう力強さと、点心を扱う繊細さ。その両方が、手つきに残っている。
「外廷の連中がさ、後宮じゃ甘いもんの出し方まで気を遣うって言うんだ。だったら、一度この目で見ときたくてな。ついでに、旅先で拾った香りの使い方も試してみたい」
理由ははっきりしていた。見物じゃない。自分の菓子が、この場所で通るか確かめに来たのだ。シェルさんらしい。正面から来て、正面からぶつける。
猫姉は、そこでようやくシェルさんへ目を向けた。けれど、視線が止まったのは顔じゃない。包み布の端、結び目、置いた場所、その周りの空気だ。
「菓子を開ける前に、一つだけ」
猫姉の声はいつも通り、平らだった。シェルさんは面白そうに眉を上げる。
「なんだ、味見の順番か?」
「いえ。布です」
小蘭が「えっ」と声を漏らし、子翠が包みを覗きこもうとして止まる。俺はその一言で、もう猫姉がどこを見ているか分かった。
甘い香りは悪くない。むしろ上等だ。けれど、上等な匂いほど残る。布は覚える。箱も覚える。次に置くものへ、静かに移る。
猫姉が包みの近くへ顔を寄せた。触れない。息も強く吸わない。ただ、そこにある匂いの濃さだけを測るみたいに、ほんの一拍置く。
「香りが強い。悪くないです」
そこで言葉を切る。切ってから、布の端へ目を落とした。
「でも、布が覚えます」
シェルさんの笑顔が、そこで少しだけ変わった。消えたんじゃない。笑ったまま、興味の色が濃くなる。試される顔だ。嫌がるんじゃなく、前に出る顔。
「へえ。そう来たか」
その一言で、厨房の空気が変わった。
ただ甘いものを見せる話じゃなくなった。ここからは、香りをどう通すか――その勝負になる。