試しの盆を並べたのは、昼の火が少し落ち着いた頃だった。
先に出すのは、香りの薄い蒸し菓子。喉に引っかかりにくくて、後味も軽い。そこへ、あとからシェルさんの包み菓子を重ねる――その順番で、今日は見てもらうはずだった。
俺は二つの皿の間をあけ、蓋の向きをそろえる。
猫姉はその横で、盆の縁と布のたるみだけを見ていた。小蘭は「今日はちゃんと覚えたもん」と得意げに頷き、子翠は口を挟みたそうにしながら、今のところは我慢している。
「じゃあ、先にこっちだな」
俺が薄い蒸し菓子の皿へ手を伸ばした、その時だった。
「待って」
猫姉の声は低くも強くもない。なのに、手がぴたりと止まる。
視線の先を追うと、蒸し菓子の皿にかけた布の端が、いつの間にかシェルさんの包み布に触れていた。ほんの少し。けれど、その“ほんの少し”が嫌な形で残っている。
猫姉が蒸し菓子の皿へ顔を寄せた。
触れない。蓋も開けない。布の端だけを指でつまみ、すぐ離す。
「……移ってる」
小蘭が「えっ」と声を漏らし、子翠が慌てて鼻先を寄せる。
次の瞬間、子翠の顔つきが変わった。
「あ、ほんとだ。さっきの甘い匂い」
「でも、こっちまだ開けてないよ?」
小蘭が目を丸くする。
「開けてなくても、近い」
猫姉の言葉は短い。
俺は布を外し、蒸し菓子を一つ割った。割れ目から立つはずの、やわらかい湯気みたいな匂い。その手前に、シェルさんの華やかな甘さが一歩だけ割り込んでくる。
味は、たぶん変わっていない。
でも、順番は壊れる。先にこれを出したら、「軽いものを軽いまま見る」って流れが崩れる。
「猫姉」
「うん。味じゃないです」
猫姉は蒸し菓子ではなく、俺の手元と、盆の上の距離を見ている。
それから、はっきり言った。
「味は変わっていません。でも、観察を邪魔します」
部屋が少しだけ静かになった。
シェルさんは笑っていない。怒ってもいない。包み布と、こっちの皿を見比べて、腕を組む。
「そこまで響くか」
低く落ちた声は、機嫌の悪さじゃなく、悔しさに近かった。
「響きます」
猫姉が返す。「先に嗅いだ匂いが残ると、そのあとの喉の感じも、後味も、見え方がずれます」
小蘭が首をすくめる。
「じゃあ、せっかく順番決めたのに……」
「やり直せばいい」
俺はそう言って、蒸し菓子の皿を盆から下ろした。布を替える。皿も替える。置き場も少し離す。
手順が一つ増えるだけだ。面倒でも、分かってるなら直せる。
シェルさんが、その動きをじっと見ていた。
鋼棍に手は伸ばさない。ただ、料理人の顔で、俺の指先を追っている。
「マオ」
「はい」
「逃がすのか」
「こっちは、逃がします」
新しい布を広げながら答える。「先に立てたい匂いじゃないんで」
シェルさんの口元が、そこで少しだけ上がった。
負けた顔じゃない。面白くなってきた時の顔だ。
「いいね。そういうぶつかり方なら、嫌いじゃねえ」
猫姉は、そのやり取りには乗らない。
盆の上の空いた場所を指で示し、さらりと落とす。
「香りの強いものは最後。布は別。近づけない」
「はいはい、今度はちゃんと覚える!」
小蘭が勢いよく頷き、子翠が「私はもう分かったよ」と口を尖らせる。
「分かったなら、手を出さない」
猫姉が言うと、子翠はすぐに両手を上げた。
甘い匂いは、まだ部屋に残っている。
いい匂いのままだ。けれど今は、ただ“おいしそう”じゃ済まない。どこへ行くか、何を押しのけるかまで、見なきゃいけない匂いになった。
俺は新しい布の上に、香りの薄い皿を置き直した。
今度は、順番を壊させない。