新しい布を広げると、さっきまでまとわりついていた甘い残り香が、ようやく一歩だけ引いた。白い布の面は乾いていて、指先でなぞると、かすかな擦れる音だけが返ってくる。覚えていない布は、それだけで扱いやすい。
シェルさんは包み菓子の前で腕を組み、しばらく黙っていた。怒っているわけじゃない。悔しさを、口じゃなく手の内側に押し込めている顔だ。やがて壁際に立てかけた鋼棍へ目をやり、ふっと息を吐いた。
「香りを立てるのは得意だと思ってたんだがな」
声に棘はない。認めたくない、じゃなく、面白くなってきた時の低さだ。
「ここじゃ、立てりゃいいってもんでもねえか」
「後宮は、そういう場所です」
猫姉は平らに返した。見ているのは菓子じゃない。布の端と、蓋のかぶり具合と、皿と皿のあいだにある空気だ。
「先に嗅がせたい匂いと、後に残っていい匂いは違います」
その一言で、シェルさんの口元が少し上がった。試されて、むしろ前へ出る時の顔だ。
「いい。じゃあ、閉じる」
シェルさんは包み布を持ち上げた。
「マオ、お前は逃がせ。俺は抱かせる」
「分かりました」
返事をして、棚から目の詰まった内包みを取り出す。香りを通しにくい薄布だ。シェルさんは俺の手元を見て、すぐに頷いた。説明はいらない。どこを変えるか、もう互いに見えている。
まず、香りの強い包み菓子を二重にした。外は見映えを残す。中は香りを抱かせるための別布に替える。結び目を強く締めすぎると、蒸れて匂いが濁る。その手前で止める加減は、やっぱりシェルさんのほうがうまい。
「締めすぎると死ぬ」
短く言って、布を返す。
「香りも生き物だ」
「じゃあ、こっちは逃がします」
俺は別の皿に、香りの薄い蒸し菓子を置いた。蓋は少しだけずらす。布はかけない。空気に触れさせるのは最初だけにして、余計な匂いを拾う前に閉じる。立てるんじゃない。残さないための開け方だ。
小蘭が二つの皿を見比べて、目を丸くした。
「え、片方は閉じて、片方は開けるの?」
「逆に見えるけど、順番が違うだけ」
皿の向きを揃えながら答える。
「先に出すのは、こっち。匂いを残したくないやつだから」
子翠は今度こそ手を出さず、背伸びして覗きこんだ。
「じゃあ、強いのは最後?」
「最後」
猫姉が先に言う。その声は短いのに、線だけははっきりしている。
「布も共用しません。箱も分けます」
小蘭がそこで、抱えていた布を見下ろした。さっきより顔つきが真面目になっている。
「じゃあ、小蘭、こっちはこっちで分けるね」
「札も置いとく」
子翠が木札を持ち上げた。
「香りの強いほう、混ざると困るし」
猫姉は小さく頷いた。褒めない。けど、止めない。そのくらいが、この人の“それでいい”だ。
皿が整う。淡いもの、中くらいのもの、最後に香りの立つもの。布の位置も、蓋の向きも、さっきまでよりずっと静かだった。匂いはある。なのに、暴れない。ちゃんと、出る順番の顔をしている。
シェルさんが包み菓子を一つ見て、ふっと笑った。
「客で来たつもりだったが、ずいぶん手ぇ出しちまったな」
「そのほうが早いです」
俺が言うと、シェルさんは肩を揺らした。
「そういうとこだ。お前、ほんと気持ちよく前へ進むな」
それから、出来上がった盆を見て、低く続ける。
「悪くねえ。これなら、勝負じゃなくて通し方になる」
猫姉が布の端を指で整えた。爪先で皺を消して、最後に一言だけ置く。
「これで、やっと並べられます」
さっきまで、香りは場を押していた。いい匂いのまま、順番だけを壊していた。けれど今は違う。置く場所と出す順番が決まったことで、甘さはちゃんと“最後に来るもの”として落ち着いている。
布を替える。箱を分ける。順番を守る。
たったそれだけで、香りは武器にも、邪魔にもなる。