試しの盆を庭へ運ぶころには、陽が少しだけ傾いていた。木陰の輪郭がさっきより深くなり、敷物の端へ落ちる光もやわらいでいる。小蘭が先に布を広げ、子翠が色の違う札を並べ、猫姉はそのあいだを黙って見ていた。止める声が出ないのは、手順が狂っていない時だけだ。
風が鳴る。
その音に合わせるように、俺は盆を置いた。先に出すのは香りの薄い蒸し菓子。新しい布、新しい皿、蓋は一瞬だけずらして、すぐ戻す。余計な匂いを拾わせない。拾わせないまま、最初の印象だけ通す。
「じゃ、まずはこっちだな」
小蘭が身を乗り出し、でも前みたいにすぐ手は出さない。子翠も札を袖に隠さず、ちゃんと膝の横へ置いた。庭の空気まで、少しだけ整っている気がする。
猫姉が小さく頷く。
「先でいいです」
その一言で、胸の奥の固いところがほどけた。小蘭がひと口取る。噛む。飲み込む。肩が落ちる。子翠も続いて、今度は顔をしかめない。香りは立ちすぎず、喉の奥へ残るものもない。淡いものが、ちゃんと淡いまま届いている。
「……うん、これなら軽い」
子翠が言うと、小蘭がすぐに笑った。
「さっきより、ちゃんと最初の味って感じ!」
そこで、シェルさんが包み菓子の布へ手をかけた。内包みを解く指は、やっぱり迷いがない。外の布は甘い匂いをほとんど残していないのに、結び目の内側からだけ、花蜜と果実の香りがふっと抜ける。さっきまでみたいに場へ広がらない。狙ったところだけに立つ、細い香りだ。
「よし。次は俺の番だ」
声は明るい。けれど、ただ押すだけじゃない。閉じるべき場所を覚えた人の声だった。
小さく切った包み菓子を、最後の皿へ移す。布は共用しない。箱も離す。札も別。さっきまで手間だと思っていた段取りが、今は線みたいに分かりやすい。どこから先が混ざらないか、見れば分かる。
小蘭がそっと鼻を寄せた。
「わ、いい匂い」
「最後だからな」
シェルさんが笑う。
「最初に嗅がせるんじゃなくて、最後に残す。そういう勝ち方もあるってわけだ」
その言い方に、猫姉は何も返さなかった。代わりに、皿の距離と布の端を見ている。口を出さないのは、認めた時だ。
俺は包み菓子をひとつ取り、皿の端へ置いた。小蘭、子翠、猫姉の順に渡す。最後に俺も口へ入れる。甘さはしっかりある。香りも立つ。でも、前みたいにほかの皿を押しのけない。ここに来るまで、ちゃんと待っていた甘さだ。
短く、うまい。
「……これなら、順番を壊しません」
猫姉が淡々と言った。褒める声じゃない。けれど、この人がそこまで言うなら、それで十分だ。
シェルさんが肩を揺らして笑う。
「やっと通ったか。見せに来たつもりだったが、ずいぶん直されたな」
「直したんじゃないです」
俺は皿を見たまま答えた。
「通る形に寄せただけです。香りは強い。でも、置き方が決まれば、ちゃんと武器になる」
シェルさんの目が、そこで少しだけ細くなる。照れたような、でもうれしさを隠さない顔だった。
「そういうまとめ方、嫌いじゃねえ」
風がもう一度、布の端を揺らした。けれど匂いは暴れない。新しい布は余計なものを覚えず、使い終えた皿も、次のための静けさを残している。表向きは、ただの試し食いだ。けれど実際には、布を替え、箱を分け、順番を守るという新しい決まりが、ここでひとつ根を張った。
小蘭が最後のひと口を大事そうに持ち上げる。
「じゃあ、次は果実だけの甘いの!」
「一度に増やしません」
猫姉がすぐ切る。子翠が吹き出し、シェルさんが声を立てて笑った。俺もつられて笑いながら、空いた皿を重ねる。香りは残る。でも、もう邪魔はしない。残り方まで決まった甘さなら、ちゃんと日常の中に置ける。