後宮の厨房は、相変わらず静かだった。
火の音と、包丁がまな板に触れる音だけが淡々と続いている。俺は干し野菜の仕込みをしながら、最近この場所に漂う違和感を考えていた。料理の味が落ちたわけでも、食材が変わったわけでもない。それなのに、食べた後の空気が重い。腹が満たされても、体が軽くならない感覚だ。
「マオ」
聞き慣れた声に、手を止める。
「どうした、猫姉」
振り返ると、猫姉――猫猫が、いつもの無表情で立っていた。ただし、目だけは忙しなく動いている。あれは、考え事をしている時の目だ。
「最近、後宮で出てる菓子、知ってる?」
「菓子?」
俺は少し考え、すぐに思い当たった。
「ああ、蜜を煮詰めて固めたやつだろ。胡麻と木の実を混ぜた……」
「蜜煎果」
猫姉が言葉を補う。
「そう、それだ」
あの菓子は、見た目は地味だが、評判はいい。薄く切って出され、口に入れるとすっと溶ける。甘味も強すぎず、疲れた時には確かに“ちょうどいい”。
「最近、あれを食べてる人たちが、揃って体調を崩してる」
「毒じゃないんだろ?」
「ええ。毒反応は出てない。薬も効いてる。でも、回復が遅い」
猫姉はそう言って、俺の手元をちらりと見た。
「料理人の目で見て、あの菓子どう思う?」
急に振られて、俺は少し言葉を選んだ。
「……正直に言うと、作り方次第で厄介になる」
「どういう意味?」
「蜜煎果は、主に麦芽糖と蜂蜜を煮詰めて作るだろ。あれ、少量なら滋養になるけど、毎日食べると血が重くなる」
「血が、重く?」
「体がだるくなる感じ。甘いもんって、元気が出る代わりに、使い方を間違えると疲れを溜める」
猫姉は腕を組んで、少し考え込んだ。
「後宮の生活だと、運動量も少ないし」
「そう。しかも、あの菓子」
俺は声を落とす。
「油も使ってる。胡麻油だ。香りはいいけど、消化に時間がかかる」
「なるほどね……」
猫姉の目が、少しだけ鋭くなった。
「つまり、毒じゃないけど、体調を削る条件が全部揃ってる」
「そういうことになる」
俺は正直に答えた。
「悪意があるとは思わない。むしろ、気遣いの菓子だ。でも、後宮みたいな場所だと……」
「“優しさ”が、害になる」
猫姉が、淡々と言った。
「後宮あるあるね」
そう言いながらも、口元は少しだけ歪んでいる。楽しんでいるわけじゃない。面倒な予感を確信に変えた顔だ。
「猫姉、これ事件になる?」
「なるわね」
即答だった。
「犯人がいないタイプの、いちばん厄介なやつ」
俺は思わず苦笑した。
「俺、関係ある?」
「ある」
間髪入れずに言われる。
「このままじゃ、また別の“善意の食事”が増える。だから、代わりを用意する必要がある」
「代わり?」
「甘味はやめさせられない。だったら、体を疲れさせない甘味に変える」
その瞬間、俺はようやく理解した。
「……なるほど。俺は、裏方か」
「最初から、そのつもり」
猫姉は、ほんの少しだけ口角を上げた。
「安心して。表で揉めるのは私の仕事。あんたは、料理だけ考えて」
そう言って、踵を返す。
「菓子の案、考えといて。今日中に」
「分かった」
短く答えながら、俺は頭の中で材料を並べ始めていた。
蜜煎果は、悪くない。
ただ、場所と量と頻度を、完全に間違えていただけだ。
料理は、人を元気にもするし、静かに削りもする。
その境目を、俺は今日、はっきりと見た気がした。
後宮で起きる事件は、いつだって派手じゃない。
だが、だからこそ――気づいた時には、深く入り込んでいる。