隊商が引き上げてから三日、廊下はようやく静かになった――はずだった。人の声は落ち着いたのに、匂いだけが残っている。すれ違うたび、衣の袖から甘い花の香りが尾を引き、柱の陰にまで染みつく。朝の水拭きが終わった床からも、どこかぬるい匂いが立ち上がる。香油だ。小瓶の玻璃が陽を受けてきらきらしていたあれが、いまは後宮のあちこちに増えている。
厨房にも流れ込んできた。蓋を開けた蒸籠の湯気に、香油の甘さが混ざる。魚の匂いを押しのけるほど強いわけじゃないのに、隙を見て入り込む。料理の香りが“軽く”なるのが、なんだか落ち着かない。
「ねえマオ、これ! 流行りだよ!」
小蘭が小瓶を両手で持って走ってきた。瓶の口が少し濡れていて、指がつるりと光る。
「走るな。落とす」
言いながら手を伸ばすと、猫姉が先に小蘭の手首を止めた。
「小蘭、蓋。締めてから」
「は、はいっ」
子翠は、もう自分の髪に少しだけ垂らしている。近づくと甘さの裏に、青い匂いが細く混じった。
「猫猫、どう? いい匂いでしょ」
「悪くはないです」
猫姉はそう言って、瓶ではなく小蘭の袖口を見た。香りが移った布の縁。指先で触れずに距離だけ測る。
「でも、あんたたち、塗りすぎ」
「えー、少しだよ」
「少し、のつもりでも残ります」
俺は鼻先で笑いそうになって、代わりに瓶を覗いた。油の色は淡い金。粘りは軽い。混ぜものは少なそうに見える。
「香油ってさ、何でこんな残るんだ?」
子翠が髪を指でつまみ、くるっと回す。
「油は布に吸うからだよ。酒みたいに飛ばない。香りは油に抱かれて、ほどけるのが遅い」
「へえ……料理の脂と同じ?」
「似てる。脂があると香りは立つけど、離れにくい。だから順番を間違えると、次の匂いを押す」
言った途端、猫姉がこちらを見た。目の動きが小さいのに、刺さる。
「……押す、ね」
猫姉は小蘭の首筋へ視線を滑らせ、それから自分の指先を一度嗅いだ。塗っていないはずなのに、薄い甘さが乗っている。猫姉の眉がほんの少しだけ動いた。
「匂いが同じに見えて、層が違う」
「どういうこと?」
小蘭が首を傾げる。
「上は花。下に、変なのがいる」
猫姉は説明を足さない。足さないまま、裾をつまんで歩き出した。行き先を言わなくても、方向で分かった。水晶宮――玉葉妃の宮だ。
「猫姉、どこ行く」
「水晶宮。匂いが濃い」
「俺も?」
「来るなら、来て。邪魔はしないで」
「しないしない。手ぇ洗ってからな」
桶で指をすすぎ、布で拭く。香油の甘さが鼻の奥に残る。残ったまま廊下へ出ると、匂いの流れが見えてくる。人の多い曲がり角、日当たりのいい渡り廊下、簾の近く。そこだけ甘さが濃い。
猫姉は立ち止まって、簾の影を一度だけ見上げた。
「祭りは終わったのに、匂いだけ増える。おかしい」
短い一言だった。けれど、その一言で背筋が少し伸びた。
香りは祝うためのものだったはずだ。いまは、場に居座っている。