水晶宮の廊下は、光が冷たい。簾越しの陽が床に筋を落として、そこだけ白く浮く。人の声は控えめなのに、匂いは濃い。花の甘さが先に来て、あとから油の膜が追いつく。鼻の奥がすべって、喉が一度だけきゅっと狭くなった。
猫姉は立ち止まって、息を吸わずに周りを見る。床、柱、帳子の端、侍女の袖。匂いの出どころを探すというより、匂いが“どこで残っているか”を拾っていた。
「猫姉、ここが一番?」
「濃い。あと、混ざってる」
言い切って、猫姉は一人の侍女に向き直った。
「香油、使ってますか」
「はい。皆さま、最近は……」
「いつから。どれを。どこに」
質問が短い。詰める声じゃないのに、侍女の返事がどんどん整っていく。
「隊商が来た日からです。玻璃の小瓶の——この薄い金色を。首筋と手首に。朝と、午後に少し……」
猫姉が頷く。
「その後、気分が悪くなった人は」
「……頭が重いと言う子がいました。香りが強いからと……」
猫姉は、その“頭が重い”を顔には出さない。代わりに袖口へ視線を落とした。
「その子の寝具、誰が扱った」
「同室の子です」
「同室の子は、同じ香油?」
「いえ、違うのを……果実の香りの、赤い瓶を」
小さな違いが、並んだ。俺は侍女の指先を見た。油の光り方。爪の際の薄い艶。塗った量が分かる。少しだけ、じゃない。
猫姉が次の侍女へ移る。小蘭と子翠も後ろに付いてきて、耳だけを働かせていた。子翠は口を挟みたそうにするのを我慢している顔だ。小蘭は真剣な顔が長続きしない。けど、今は黙っている。
「ねえ、猫猫」
小蘭が小声で言う。
「みんな、同じ匂いなのに、何で違うの?」
猫姉は歩きながら、さらりと返した。
「同じに見えて、重ね方が違う。場所も違う。量も」
「重ね方?」
「朝の花のあとに果実。寝具に移って、また肌へ戻る。そういうの」
言葉は短いのに、背中にひっかかる。俺はそこで、厨房の湯気を思い出した。匂いは飛ぶものじゃない。油が抱いた匂いは、布に残って、熱でまた立つ。
廊下の角、日当たりのいい場所で、猫姉が止まった。帳子の端に指を寄せて、触れないまま離す。
「ここ、強い」
子翠が鼻を寄せて、すぐ引いた。
「うわ、甘っ……でも、ちょっと苦い?」
猫姉の目が、子翠に向く。
「今の。喉は」
「んー……なんか、乾く」
猫姉が頷き、俺を見る。
「マオ。香りの“下”」
「油だな。酸っぱさじゃない。焦げでもない」
言いながら、帳子の裏側へ視線を滑らせた。布の繊維が、うっすら艶を持っている。ここに誰かが指を添えた。あるいは髪が触れた。どっちにしても、移る。
「猫姉、これ、塗る場所が増えてるんじゃないか」
「うん。首だけじゃなくて、髪。袖。帳子」
猫姉はそこで、やっと“人の癖”を見る顔になった。
「香油は流行る。塗る場所も増える。増えると、戻る」
「戻る?」
「寝具に残って、朝また付く。少しずつ、ずっと」
言い方が淡々としているのに、嫌な感じがした。毒の派手さじゃない。弱いものが、続く型。
その時、奥のほうから小さな咳が聞こえた。侍女が一人、口元を押さえて柱に寄っている。猫姉はすぐ近づかない。距離を保って声だけ投げた。
「香油、今日も使った?」
「……はい。朝に」
「今は止めて。布も替える」
侍女が頷く。猫姉はそれ以上言わない。俺は、猫姉が“原因”をまだ口にしないのが分かった。今は筋を集めている。匂いの筋、人の癖、布の戻り方。
水晶宮の光が、床の白い筋を少し伸ばした。祭りは終わったのに、匂いだけが育っている。育つなら、どこかで折れる。折れる前に、猫姉はもう手を伸ばしていた。