蒸籠の蓋を持ち上げた瞬間、湯気が頬を撫でた。白い息の向こうで、粉の匂いがふくらむ。いつもの台所の匂い――のはずが、今日はどこか甘い。袖を振るたび、花の香りが遅れて追いついてくる。
背中に視線を感じて振り向くと、猫姉が桶の横に立っていた。表情はいつも通りなのに、鼻先だけが忙しそうだ。
「ねぇ、マオ。この匂い、どう思う」
「いきなりどうしたの、猫姉。確か、今の時間はまだ仕事中じゃ」
「良いから」
短い言葉に押されて、手を止めた。猫姉が小瓶を差し出す。玻璃越しに淡い金色が揺れて、蓋の縁だけが少し湿っている。
「んっ?」
鼻先に近づけると、花の甘さが先に来た。悪くない。けれど、その下に薄い渋みがいる。喉の奥が、乾いた紙を擦るみたいにきゅっと鳴る。
「この匂い、なんだか変だけど」
猫姉は瓶じゃなく、俺の袖口を見た。さっき湯気を浴びた布が、うっすら艶を持っている。
「布が覚えるやつだな。油が抱いてる」
「……それだけじゃない」
猫姉が布を一枚寄こした。新しい、匂いのない布。そこへ香油をほんの一滴落とし、指で広げずに折りたたむ。
「湯気、当てて」
「ここで?」
蒸籠の縁へ、布を近づけた。湯気が触れた途端、さっきの甘さが急に厚くなる。甘いのに、喉が狭くなる。花の奥から、苦い影が顔を出した。
猫姉が一拍置いて、俺の喉元を見た。
「今、どう」
「……乾く。あと、渋いのが遅れて来る」
猫姉は頷いた。頷きは小さい。次に、同じ布を少し冷ましてから、もう一度だけ湯気へ当てる。二回目のほうが、渋みが早い。
「残り香が、戻る」
「寝具とか帳子に移って、朝また立つ。そういう型か」
「うん」
猫姉の返事はそれだけだった。そこへ、話を急に曲げてくる。
「マオに聞きたいんだけど、妊婦に食べさせたら駄目な食べ物は分かる。それがこの前の行商の中に」
湯気の前で、指先が止まった。香りの渋みが、さっきよりはっきりする。
「……確かにあったけど、もしかして」
「匂いの“下”が、そっちの方向」
猫姉は瓶の口を示した。甘い花の顔の裏に、別の顔がいる。
「あんたは厨房とかに行って、それの説明を頼める」
「俺に」
「料理の事はあんたに任せる!」
言い切られて、腹の奥がすとんと決まった。台所の人間は、言葉より“理由の形”があるほうが動く。妊婦がいる宮なら、なおさらだ。
「分かった! 猫姉も気をつけて!」
「私は匂いを追う。あんたは口に入るほう」
猫姉はそう言って、布を畳んだ。湯気の匂いが戻る前に、蓋を閉める手つきで。
小蘭が「何してるの?」と覗き込み、子翠が「その布、甘い匂いする」と鼻を寄せかける。猫姉の視線が落ちて、二人の動きが同時に止まった。
「触らない。嗅ぎすぎない」
猫姉の声は淡い。けれど、その淡さのほうが怖い。
桶の水を替える音が、台所の熱気に混じる。祭りは終わった。なのに匂いだけは増える。増えるなら、どこかで誰かが困る。困る前に、段取りを変えるしかない。
俺は布を一枚新しく取って、蒸籠の横へ置いた。湯気に近づけない位置へ。香りを立てるのは簡単だ。立てないようにするほうが、よほど技が要る。