壬氏さまの部屋は、いつ来ても妙にきれいだ。紙の角まで揃っていて、机の上に置かれた筆ですら、居心地の悪そうな顔をしている。
その真ん中に、細く折られた文が一通、置かれていた。
高順さんがそれを二本の指で摘み、軽く振る。軽い仕草なのに、嫌な予感しかしない。
「水晶宮の侍女頭から抗議文が届いている。お前はもう少し節度がある人間だと思ったけど」
猫姉は眉一つ動かさなかった。こういう時の猫姉は、開き直っているように見えて、だいたい半分は本気で悪いと思っていない。
「すいません、つい興奮してしまい、相手の了承も得ずにやってしまいました」
机の向こうで、壬氏さまの目が細くなる。
「なんだ、その変態みたいな言い訳は」
「今度は了解を持って、やりたいと思います」
「猫姉、そういう事じゃないと思うよ」
思わず口を挟むと、猫姉がちらりとこっちを見た。視線だけで「余計なことを言うな」と刺してくる。遅い。
高順さんが、今度は俺へ顔を向けた。
「マオも、お前は調理場でいきなり調味料を片っ端から見て、驚かれていたぞ」
「すいません」
隣で小蘭が小さく肩をすくめる。
「あらら」
笑いを噛み殺した声だった。子翠ならもっと面白がっただろうが、今日は部屋にいない。それだけが救いだ。
壬氏さまは、文を机へ戻した。
「水晶宮の侍女頭は、香油を使った侍女たちの袖を猫猫が片っ端から嗅ぎ、帳子の端まで調べたと書いている。かなり嫌だっただろうな」
「否定はしません」
猫姉は淡々としている。
「必要でしたので」
「必要なら何をしてもいい、という顔をやめろ」
壬氏さまの声は低い。怒鳴らないぶん、余計に逃げ場がない。
けれど猫姉は、その圧をまともに受けながら、少しも引かなかった。こういう時の猫姉は、妙にまっすぐだ。
「これでも、理由はあるんですよ。マオ、調べていたのは持って来た」
言われて、抱えていた包みを机の上へ置いた。布をほどく。中から出てきたのは、小袋と木札と、走り書きの紙だ。厨房番に聞いて回って集めたやつ。行商が持ち込んだ香辛料、乾物、香料の類を、用途ごとに分けてある。
「あぁ、猫姉に頼まれて、探したけど、やっぱりあったよ」
壬氏さまが、机の上の小袋を見下ろした。
「探していた?」
高順さんも続ける。
「何?」
猫姉は自分では袋に触れない。顎で俺を促すだけだ。説明役はお前、という合図だった。
「まずはマオが持って来たのを見て貰いながら」
「これらが?」
小袋を一つ持ち上げる。乾いた種が、布越しにざらりと音を立てた。
「はい。俺は様々な料理人と接する機会もあり、多くの食材や調理方法を学ぶ機会がありました。だからこそ、その成分について詳しく知らない人も多くいました」
壬氏さまが、わずかに眉を上げる。
「まぁ、調味料だからな、味付け程度だと思われるから」
そこは、高順さんが拾ってくれた。机の上の空気が、少しだけ動く。
俺は小袋を開いて、中の粒を指先へ少しだけ落とした。黄土色の細い種。ほんのり苦く、豆に似た青さがある。
「例えば、こちらは遠いインドの国から取り寄せた物のフェヌグリーク。カレーの香り付けとして使われていますが、実はこれには妊娠中は子宮収縮方向の懸念があるとされます」
「なんだと」
壬氏さまの声が落ちる。高順さんの目も、袋へ止まったまま動かない。
「これ以外にも、異国の料理の調味料として購入されていた物もありました」
別の袋を横へ並べる。種、乾いた葉、樹皮に似た香りの欠片。どれも料理に使えば面白い。けれど、誰にでも、どんな時でも、同じように使っていいわけじゃない。
壬氏さまが低く言う。
「異国の知識、確かにそれは」
「このように料理だけでも、この危険性はありました」
言いながら、手の中の種を袋へ戻した。机の上へ散らさないように。こういう時ほど、雑に扱うのは違う。
「ですが、料理以上に問題があったのは香油です」
「何」
今度は猫姉が、壬氏さまの前に並ぶ玻璃瓶へ視線を落とした。香油の小瓶だ。薄い金、赤みのある琥珀、花を溶かしたみたいな淡い色。きれいだ。きれいだから、雑に広まる。
「これらは少量ならば毒としての効果はあまりありません。しかし、ここまで重なれば違います。これは似ていると思いませんか」
壬氏さまの目が、そこで少しだけ変わった。思い出した顔だった。
「……あの一件か」
「あの一件?」
知らないのは俺だけだ。小蘭も隣で目を瞬かせている。
壬氏さまが椅子の背へ軽く寄りかかった。嫌な話をする前の、間だった。
「マオは知らなかったね、鉛入りのおしろいの事件の事」
部屋が静かになる。
猫姉は頷きもしない。ただ、いつもの声で続けた。
「少しずつなら、すぐには表に出ません。けれど、毎日使う。寝具に移る。帳子に残る。肌へ戻る。そうやって重なると、弱い者から崩れます」
壬氏さまの指が、机を一度だけ叩く。乾いた、小さな音だった。
「売り物自体が悪いわけではない、か」
「はい」
俺は答えた。
「使い方が決まってないんです。香りの強いものも、口に入るものも、珍しいってだけで一緒くたになってる。料理なら本来、誰に出すかで変えるやつです」
「そして、後宮では相手を間違えた」
高順さんの声は静かだった。
猫姉が、そこで初めて壬氏さまを見た。目だけで、言葉を置く。
「禁じるより先に、分けるべきです」
机の上には、小袋と瓶が並んでいる。祭りの残りみたいに、どれも少し浮き足立って見えた。きれいで、珍しくて、役に立つ。だからこそ、扱いを決めなければならない。
壬氏さまはしばらく黙っていたが、やがて息を吐いた。
「……なるほど。ようやく抗議の意味が分かった」
「抗議の理由、そこですか」
「そこだよ。だが、次からは袖を嗅ぐ前に一言入れろ」
「善処します」
「しない顔だな」
猫姉は返事をしなかった。しない時は、だいたい半分くらいしか守る気がない。
俺は袋を包みに戻しながら、机の上の瓶を見た。香りは悪くない。調味料だってそうだ。悪いのは、誰の口へ入るか、どこへ残るかを決めないことだ。