夕刻の執務室は、日が落ちる前から静かだった。
障子越しの光はやわらかいのに、部屋の中の空気だけが妙に張っている。机の上には、特使から届いた文が二通。そのうち一通は、もう片がついていた。月の精に会いたいという、どう考えてもまともではない願いは、猫猫に投げてある。あれなら、腹立たしいほど器用に形へしてみせるだろう。壬氏はそこに関してだけは、すでに腹を括っていた。
問題は、もう一方だった。
「月精の件はいいとして……こちらは、よくもまあ、さらりと書いてきたものですね」
文を指先で持ち上げ、壬氏は眉を寄せた。
高順は一歩引いた場所に立ち、主の声音が低くなるたびに、余計な口を挟まない程度の距離を守っている。けれど、まったくの無反応ではない。少しだけ視線を落とした。
「“祖父が見たという宮中の宴に倣い、特級厨師の膳を所望する”……だそうです」
「所望する、で済む話なら楽なのですが」
壬氏は文を机に戻した。指先が、紙の端を軽く叩く。
特使は、鏡だけで満足しなかった。献上の場、宴の趣向、月精の再現。そこまではまだ分かる。異国の使節が、見聞きした古い幻想へ憧れを抱くこと自体は珍しくない。だが、その席に出す料理人の格まで指定してくるとなれば話は別だ。
高順が、淡々と現実を置く。
「外から正式に特級厨師を呼ぶとしても、間に合いません。名のある者ほど支度が要りますし、呼び寄せる理由も整えねばなりません」
「それに、間に合ったところで、こちらが従ってやる義理もない」
そう言ってから、壬氏は小さく息を吐いた。
義理はない。けれど断れば、今度は別の面倒が生まれる。特使は無理難題を言っているようでいて、ぎりぎり跳ね返しにくいところを突いてくる。そこが厄介だった。
「月精だけでは足りない、というわけですか」
「足りないのでしょう。目で見て、舌で納得して、ようやく“見た”ことにしたいのかもしれません」
「面倒な客ですね」
「今さらでしょう」
短い応酬のあと、部屋はまた静かになった。
壬氏は文を見下ろしたまま、少しだけ目を細める。もし猫猫がここにいれば、きっとこう言うはずだ。面倒ごとは、面倒ごと同士で寄ってくる、と。実に腹の立つ言い草だが、たしかにその通りだった。
その時、戸の外で軽い足音が止まった。次の瞬間、返事を待つとも待たぬともつかない間で戸が開く。
「おや、暗い顔をしているな」
入ってきた男を見て、壬氏は露骨に顔をしかめた。
「……羅漢殿」
漢羅漢は、こちらの空気など初めから数に入れていない顔で笑っていた。いつものことだ。どこまで本気で、どこまで戯れているのか、目だけでは判じにくい。細い指先で扇の骨を弄びながら、机の上の文へ視線を滑らせる。
「どうせ特使の要望だろう。月の精は何とかなる。残るは特級厨師、というところか」
高順の眉が、わずかに動いた。
「……話が早いですね」
「君たちが遅いんだよ」
からかうように言ってから、羅漢は笑みを深めた。
壬氏は、肘をつくでもなく、ただ背筋を伸ばしたまま問い返す。
「用件を。まさか、私の困り顔を見に来ただけではないでしょう」
「それでも十分に価値はあるが、今日は少し親切にしてやろうと思ってね」
「ありがた迷惑の匂いしかしませんね」
「そう嫌うな。お前たちが欲しがっているものなら、すぐに用意できる」
その言い方に、高順がようやく視線を上げた。
「特級厨師を、ですか」
「そうだ」
壬氏は即座には乗らなかった。むしろ、いっそう警戒した。
「冗談にしては質が悪い。そんなもの、今からどこで都合するつもりです」
「都合する必要がないんだよ。呼び寄せる時間が足りないなら、最初から“来られる場所”にいる者を使えばいい」
室内の空気が、そこで一段だけ変わった。
高順は黙ったまま羅漢を見る。壬氏もまた、相手の顔から冗談の色を探したが、見つからない。いや、見つからないというより、最初から見せるつもりがないのだろう。
「……そのような者がいる、と?」
「いるとも」
「では、名を」
高順が言うと、羅漢は扇を閉じた。乾いた音が、静かな部屋に小さく響く。
「それは当日まで伏せておこう。先に名を出すと、お前たちは余計な顔をする」
「顔をするも何も、こちらは段取りを組まねばならないのですが」
「段取りなら私が持ってくる」
軽い口調だった。だが、その軽さの下に無理やり押し通す気配がある。
壬氏はしばらく黙っていたが、やがて文から顔を上げた。
「……私に、見知らぬ料理人へ宴を預けろと?」
「見知らぬ、というほどでもないかもしれないな」
羅漢が口元だけで笑う。
「腕は確かだ。いや、確かなどという言い方では足りない。お前たちが特使へ見せたいものは、肩書きではなく皿の上に出る。その点において、これ以上ない札だよ」
「その札を、なぜ今まで伏せていたんです」
高順の問いは静かだ。静かな分だけ、少し重い。
羅漢は肩をすくめた。
「伏せていたわけではない。出しどころを見ていただけだ」
壬氏は、その答えに納得しなかった。だが、ここで詰めたところで、この男は名を出さない。そういう種類の確信があった。
「……信用に足る保証は?」
「私が連れてくる」
「それが保証になると?」
「なるとも。少なくとも、特使は皿を見て黙る」
言い切ったあと、羅漢は一歩引いた。もう話は済んだ、という顔である。
壬氏は苛立ちを隠さず、指先で文の端をなぞった。
「勝手に決めないでいただきたいですね」
「決めてはいない。提案しているだけだよ」
「提案にしては、ずいぶん足音が大きい」
「宴とは、そういうものだ」
羅漢はそこでようやく、壬氏をまっすぐ見た。
「楽しみにしておけ。月の精が出る夜に、皿の上まで曇らせるつもりはない」
そう言って、返事も待たずに戸口へ向かう。
高順が一歩だけ追いかけた。
「羅漢殿。せめて、どのような料理人かだけでも」
羅漢は振り返り、少し考えるふりをした。扇の先で顎を軽く叩く。
「そうだな。顔より腕がよく喋る男だ」
それだけ言って、今度こそ立ち去った。
戸が閉まる。
壬氏はしばらくそのまま動かず、やがて机の上の文へ視線を戻した。特級厨師を求める一文は変わらずそこにあるのに、部屋の中の重さだけが少し違っていた。解決したわけではない。むしろ、別の厄介さが増えた気すらする。
「……どう思います、高順」
高順は戸のほうを見たまま答える。
「名を伏せたがる以上、表へ出せぬ事情のある者でしょう」
「でしょうね」
「ですが、羅漢殿があそこまで言い切るのも珍しい」
壬氏は小さく笑った。面白いからではない。面倒ごとが面倒ごとを連れてくる時の、乾いた笑いだった。
「当日を楽しみにしておけ、ですか」
「楽しめるかは別として、備えるしかありません」
「月の精は猫猫。料理人は正体不明。私の周りは、どうしてこう、顔を隠した札ばかり集まるんでしょうね」
「類は友を呼ぶのかもしれません」
「それは聞かなかったことにします」
高順が頭を下げる。謝る気は、あまりなさそうだった。
部屋の外では、夜の支度が静かに進んでいる。宴の日は近い。月の精の段取りはついた。残るは、皿の上だ。
壬氏は、机の上の文を畳んだ。
名のない特級厨師。
羅漢の言うことを半分だけ信じるなら、その札はすでに近くにある。
ならば今は、待つしかない。
月の光が差す夜に、何が姿を現すのか――それを。