月がまだ高く昇る前の庭は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
夜露を含んだ空気がゆっくりと流れ、遠くの灯りが水面のように揺れている。
劉昴星は、呼び出された理由をまだ聞いていなかった。
ただ、呼び出した相手が誰なのかだけは分かっている。
砂利を踏む音が後ろから聞こえた。
「待たせたかな」
振り向くと、漢羅漢が庭へ入ってくるところだった。
扇を軽く揺らしながら歩いてくる様子は、まるで散歩の途中のように気楽である。
「いえ、今来たところです。
羅漢さんが呼ぶなんて、珍しいですね」
昴星がそう言うと、羅漢は面白そうに目を細めた。
「珍しい、か。
まあ確かに、こうして料理人を呼び出すことは滅多にないな」
羅漢は昴星の前で足を止める。
夜空をちらりと見上げてから、扇を閉じた。
「特使の話は聞いているか」
「月の精の件なら、猫姉が動いています」
「そちらではない」
羅漢は小さく首を振った。
「もう一つの希望だ。
特級厨師の料理を出せ、というやつだよ」
昴星は少しだけ驚いた表情を浮かべた。
ただし大げさには反応せず、静かに言葉を返す。
「噂は聞きました。
壬氏様と高順さんが困っているとも」
羅漢は軽く肩をすくめた。
「当然だろう。
今から特級厨師を呼ぶには時間が足りない」
その言葉のあとで、羅漢は昴星をじっと見た。
「だが、方法がないわけではない」
昴星の眉がわずかに動く。
「どういう意味ですか、羅漢さん」
「顔を出さずに料理を作る」
昴星は少しだけ考えてから答えた。
「変装ですか」
「その通りだ」
羅漢は楽しそうに笑う。
「特使は特級厨師の料理を求めている。
だが、その料理人の顔を知っているわけではない」
扇の先が、昴星の方を指した。
「つまり、腕だけ見せればいい」
昴星はその言葉を聞きながら、少しだけ視線を落とした。
変装して料理をすること自体は不可能ではない。
しかし、それだけで特使が納得するとは思えなかった。
「羅漢さん、たぶんそれだけでは足りません」
「ほう?」
「特使は、ただ料理を食べたいわけじゃない。
本物の特級厨師かどうか、そこを見てくると思います」
羅漢はゆっくり頷いた。
「つまり皿そのものが証明になる、ということだな」
「はい」
昴星は庭の池へ視線を向けた。
水面に映る灯りが、わずかに揺れている。
「月の宴なら、魚料理が合うと思います」
「魚か」
「白身魚がいいですね。
月の光を受けると、身の色が透けるんです」
羅漢の表情が、少しだけ真剣になる。
「続けろ」
「同じ魚を二つの料理に分けます。
一つはそのまま、もう一つは軽く火を通す」
昴星は、包丁を持つ感覚を思い浮かべていた。
「鮮度が落ちていれば、その差がすぐに分かります。
つまり料理人の腕をごまかすことができません」
羅漢は腕を組んだ。
「鮮度が命というわけだ」
「そうです」
昴星はゆっくりと息を吐いた。
「ただ宴に届く魚は、長旅をしています。
普通の料理人なら、そこまでの鮮度は出せません」
「だが、お前には方法がある」
昴星は答えなかった。
ただ、腰に差している包丁の柄に指先を触れた。
鞘の中にある刃は、まだ抜かれていない。
永霊刀。
魚介の時間を取り戻すと伝えられる刃である。
羅漢はその仕草を見て、静かに笑った。
「なるほど。
伝説の厨具を使うつもりか」
昴星は少し考えてから答える。
「必要なら、です」
声は落ち着いていた。
しかし、その奥に迷いはなかった。
羅漢はしばらく黙っていたが、やがて扇で軽く手のひらを叩いた。
「面白い」
夜風が庭を抜け、木の葉がわずかに揺れる。
「月の精の宴で、特級厨師の料理を出す。
しかも顔を隠したまま、だ」
羅漢は昴星を見た。
「いいだろう。
その料理でいけ」
昴星は小さく頷いた。
まだ刃は抜かない。
だが必要になれば、迷わず使う。
月の宴は近い。
そして皿の上で語るべきことも、すでに決まっていた。