薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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月の宴会 参

 宴の準備が整い始めた頃、翡翠宮の裏手にある調理場は、普段とは違う空気に包まれていた。

 猫猫は壁際に立ったまま、その空気の重さをぼんやりと観察している。

 

 月精の件は、すでに形が見え始めていた。

 あとは当日の舞台が崩れないよう整えるだけである。

 

 だが、もう一つの問題が残っていた。

 

 特使の要求。

 

 特級厨師の料理を出せ。

 

 その言葉の意味は単純だが、後宮にとっては面倒極まりない。

 

 壬氏が腕を組んで立っている。

 その隣では高順が無言で周囲を見回していた。

 

「羅漢殿の料理人という話でしたね」

 

 高順の声は低く、疑いを隠していない。

 

「そういうことになっている」

 

 壬氏はそう答えたが、納得している顔ではない。

 

 そこへ、軽い足音が近づいてきた。

 

「おや、ずいぶん警戒しているじゃないか」

 

 猫猫が振り向くと、漢羅漢がいつもの調子で調理場へ入ってきた。

 その後ろに、もう一人の人影がある。

 

 背はそれほど高くない。

 料理人の服を着ているが、顔の下半分は布で隠されていた。

 

 猫猫の視線が自然とそちらへ向く。

 

 特級厨師の刺繍。

 

 胸元の模様だけは、はっきりと見える。

 

 壬氏の眉がわずかに動いた。

 

「その格好は?」

 

 羅漢は肩をすくめる。

 

「特使が望んだのだろう。

 特級厨師の料理を見たいと」

 

 高順が言葉を続ける。

 

「顔を隠している理由は」

 

「人前が苦手らしい」

 

 羅漢は平然と答えた。

 

 猫猫は、料理人の手を見ていた。

 

 袖の先から見える指。

 無駄な力が入っていない。

 

 妙に落ち着いている。

 

 料理人の手だ。

 

 ただし、ただの料理人ではない。

 

 そこへ、侍女が大きな盆を運んできた。

 盆の上には、一尾の鯛が横たわっている。

 

 猫猫は近づいて覗き込んだ。

 

 そして、すぐに眉をひそめる。

 

 鮮度が落ちている。

 

 長旅の魚だ。

 宴の料理としては、かなり厳しい状態だった。

 

 特使が前へ出る。

 

「その魚で料理してもらおう」

 

 声は穏やかだが、意図ははっきりしている。

 

「特級厨師の料理と言うのなら、

 この程度で逃げることはあるまい」

 

 壬氏がわずかに顔をしかめた。

 高順も同じことを考えているだろう。

 

 これは試しだ。

 

 羅漢は楽しそうに笑った。

 

「聞いたかい」

 

 料理人は何も答えない。

 

 ただ、魚を見ている。

 

 猫猫はその横顔を観察していた。

 いや、顔はほとんど見えない。

 

 だからこそ、手の動きに目が行く。

 

 料理人は魚に触れた。

 

 軽く指先を当てただけだった。

 

 その動きが妙に静かで、迷いがない。

 

 猫猫の背中に、かすかな違和感が走る。

 

 普通の料理人なら、まず躊躇する。

 

 この状態の魚は、宴には向かない。

 腕のいい料理人ほど、そのことをよく知っている。

 

 だが、この男は違った。

 

 まるで、問題がないかのように魚を見ている。

 

 羅漢が口を開いた。

 

「どうだ」

 

 料理人は答えない。

 

 代わりに、羅漢が笑った。

 

「問題ないそうだ」

 

 特使の目が細くなる。

 

「ほう」

 

 猫猫は魚をもう一度見た。

 

 やはり鮮度は落ちている。

 

 普通なら、どうにもならない。

 

 だが。

 

 料理人の手が、腰へ動いた。

 

 包丁の柄に触れる。

 

 猫猫の視線がそこへ落ちた。

 

 見慣れない鞘だった。

 

 刃の長さも、形も、どこか普通の包丁と違う。

 

 料理人の指が、ゆっくりと柄を握る。

 

 羅漢が、横で笑う。

 

「特使殿」

 

 声はいつもの軽さだ。

 

「よく見ておくといい」

 

 調理場の空気が、ぴんと張る。

 

「これから、奇跡が始まる」

 

 料理人の親指が、鞘の口へかかった。

 

 猫猫はその包丁を見つめたまま、ほんの少しだけ目を細める。

 

 妙な予感がしていた。

 

 そして次の瞬間、料理人の手がわずかに動いた。

 

 ――刃が、抜かれようとしていた。

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