宴の準備が整い始めた頃、翡翠宮の裏手にある調理場は、普段とは違う空気に包まれていた。
猫猫は壁際に立ったまま、その空気の重さをぼんやりと観察している。
月精の件は、すでに形が見え始めていた。
あとは当日の舞台が崩れないよう整えるだけである。
だが、もう一つの問題が残っていた。
特使の要求。
特級厨師の料理を出せ。
その言葉の意味は単純だが、後宮にとっては面倒極まりない。
壬氏が腕を組んで立っている。
その隣では高順が無言で周囲を見回していた。
「羅漢殿の料理人という話でしたね」
高順の声は低く、疑いを隠していない。
「そういうことになっている」
壬氏はそう答えたが、納得している顔ではない。
そこへ、軽い足音が近づいてきた。
「おや、ずいぶん警戒しているじゃないか」
猫猫が振り向くと、漢羅漢がいつもの調子で調理場へ入ってきた。
その後ろに、もう一人の人影がある。
背はそれほど高くない。
料理人の服を着ているが、顔の下半分は布で隠されていた。
猫猫の視線が自然とそちらへ向く。
特級厨師の刺繍。
胸元の模様だけは、はっきりと見える。
壬氏の眉がわずかに動いた。
「その格好は?」
羅漢は肩をすくめる。
「特使が望んだのだろう。
特級厨師の料理を見たいと」
高順が言葉を続ける。
「顔を隠している理由は」
「人前が苦手らしい」
羅漢は平然と答えた。
猫猫は、料理人の手を見ていた。
袖の先から見える指。
無駄な力が入っていない。
妙に落ち着いている。
料理人の手だ。
ただし、ただの料理人ではない。
そこへ、侍女が大きな盆を運んできた。
盆の上には、一尾の鯛が横たわっている。
猫猫は近づいて覗き込んだ。
そして、すぐに眉をひそめる。
鮮度が落ちている。
長旅の魚だ。
宴の料理としては、かなり厳しい状態だった。
特使が前へ出る。
「その魚で料理してもらおう」
声は穏やかだが、意図ははっきりしている。
「特級厨師の料理と言うのなら、
この程度で逃げることはあるまい」
壬氏がわずかに顔をしかめた。
高順も同じことを考えているだろう。
これは試しだ。
羅漢は楽しそうに笑った。
「聞いたかい」
料理人は何も答えない。
ただ、魚を見ている。
猫猫はその横顔を観察していた。
いや、顔はほとんど見えない。
だからこそ、手の動きに目が行く。
料理人は魚に触れた。
軽く指先を当てただけだった。
その動きが妙に静かで、迷いがない。
猫猫の背中に、かすかな違和感が走る。
普通の料理人なら、まず躊躇する。
この状態の魚は、宴には向かない。
腕のいい料理人ほど、そのことをよく知っている。
だが、この男は違った。
まるで、問題がないかのように魚を見ている。
羅漢が口を開いた。
「どうだ」
料理人は答えない。
代わりに、羅漢が笑った。
「問題ないそうだ」
特使の目が細くなる。
「ほう」
猫猫は魚をもう一度見た。
やはり鮮度は落ちている。
普通なら、どうにもならない。
だが。
料理人の手が、腰へ動いた。
包丁の柄に触れる。
猫猫の視線がそこへ落ちた。
見慣れない鞘だった。
刃の長さも、形も、どこか普通の包丁と違う。
料理人の指が、ゆっくりと柄を握る。
羅漢が、横で笑う。
「特使殿」
声はいつもの軽さだ。
「よく見ておくといい」
調理場の空気が、ぴんと張る。
「これから、奇跡が始まる」
料理人の親指が、鞘の口へかかった。
猫猫はその包丁を見つめたまま、ほんの少しだけ目を細める。
妙な予感がしていた。
そして次の瞬間、料理人の手がわずかに動いた。
――刃が、抜かれようとしていた。