薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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月の宴会 四

調理場の中央に据えられたまな板の上へ、侍女が大きな鯛をそっと置いた。

猫猫は腕を組んだまま、その魚をじっと見つめる。

 

宴に出すには、少し無理がある。

長旅を経た魚の身は、すでに張りを失いかけていた。

鱗の光も鈍く、指で押せばすぐに形が崩れそうな気配がある。

 

猫猫は小さく息を吐いた。

普通の料理人なら、この魚を見た瞬間に眉をひそめるだろう。

 

ところが、変装した料理人は違った。

 

顔の下半分を覆う布の奥から、視線だけが静かに魚へ落ちている。

焦る様子もなければ、困った様子もない。

まるで、この状態が問題にならないとでも言うような落ち着きだった。

 

猫猫は視線を少しずらす。

料理人の腰に差してある包丁が目に入った。

 

普通の包丁とは違う。

鞘の形が妙に古めかしく、金属の表面には細かな紋様が刻まれている。

 

「……」

 

猫猫は無意識に目を細めた。

 

料理人の手が動いた。

ゆっくりと鞘を抜く。

 

次の瞬間、調理場の空気がわずかに変わった。

 

刃が現れる。

 

薄く長い刃の中央には、龍の紋章が静かに浮かび上がっていた。

灯りを受けた刃が淡く輝き、その光が鱗の上に揺れる。

 

周囲に小さなどよめきが広がる。

 

特使が眉をひそめた。

壬氏は黙ったまま、その刃を見つめている。

高順の視線も、いつの間にか包丁へ向いていた。

 

猫猫は瞬きを一つした。

 

見たことがない。

しかし、妙な違和感が胸の奥に残る。

 

料理人は周囲の反応をまったく気にしていない。

静かな動作で鯛の尾を押さえると、刃を鱗へ当てた。

 

次の瞬間、鱗が一息で剥がれ落ちた。

 

普通なら力を入れて削るところを、刃はほとんど抵抗なく滑っていく。

金属が触れる音すら、ほとんど聞こえなかった。

 

猫猫は思わず魚の身を覗き込む。

 

鱗を取られた部分の皮が、わずかに光っていた。

 

料理人の手は止まらない。

鱗を取り終えると、今度は刃を腹へ入れる。

 

刃先が鯛の身へ沈む。

 

その瞬間だった。

 

猫猫の目が見開かれる。

 

切り開かれた身の色が変わっていた。

 

先ほどまで鈍く濁っていた白身が、まるで水を吸ったように透き通り始める。

張りを失っていた肉が、ゆっくりと形を取り戻していく。

 

猫猫は思わず呟いた。

 

「……嘘」

 

隣で壬氏が低く息を吐いた。

特使の表情も、さすがに動いている。

 

だが、当の料理人は何事もなかったかのように包丁を動かしていた。

 

切り身を整え、骨の位置を確かめ、無駄なく身を外していく。

動きに迷いはなく、刃の軌跡はまるで決まっているかのようだった。

 

猫猫は魚の身を見つめたまま、言葉を失っていた。

 

あり得ない。

 

鮮度が落ちていたはずの身が、今はまるで水揚げされた直後のように張っている。

皮の下で光が弾き、白身の奥に透明な艶が戻っていた。

 

その時、背後で軽い笑い声が響く。

 

「驚くのも無理はない」

 

漢羅漢だった。

 

扇を軽く振りながら、楽しそうに周囲を見渡している。

 

「それは普通の包丁ではない」

 

特使が低く問い返す。

 

「……何だというのだ」

 

羅漢は肩をすくめる。

 

「伝説の厨具だよ」

 

その言葉で調理場の空気がさらに重くなった。

 

羅漢はゆっくりと刃を指した。

 

「その名を、永霊刀という」

 

猫猫はもう一度包丁を見た。

 

刃の中央に刻まれた龍の紋章が、灯りの中で静かに光っている。

 

「魚介の時間を取り戻す刃」

 

羅漢は続けた。

 

「ただし、誰でも使えるわけではない」

 

扇が閉じられる。

 

「その刃は、腕を認められた料理人にしか応えない」

 

特使の視線が料理人へ向いた。

 

料理人は相変わらず無言のまま、手を動かしている。

 

身を整え、皿を用意し、蒸籠の支度を始めていた。

 

その動きは、まるで周囲の驚きが存在しないかのように淡々としている。

 

猫猫はその背中を見つめていた。

 

魚の鮮度を取り戻す包丁。

そんなものがあるなど、普通なら笑い飛ばす話だ。

 

だが、目の前の鯛がすでに答えを出している。

 

料理人は最後の切り身を整えると、ゆっくりと皿へ並べた。

 

そして初めて、口を開く。

 

声は低く、落ち着いていた。

 

「料理の名は」

 

一瞬の静寂が落ちる。

 

猫猫は息を止めた。

 

料理人の手が皿の縁へ触れる。

 

「銀鱗双式」

 

その名が調理場に静かに落ちた。

 

完成した料理の香りが、ゆっすらと立ち上る。

 

だが、その味を知る者はまだいない。

 

宴の空気は、次の瞬間を待っていた。

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