調理場の中央に据えられたまな板の上へ、侍女が大きな鯛をそっと置いた。
猫猫は腕を組んだまま、その魚をじっと見つめる。
宴に出すには、少し無理がある。
長旅を経た魚の身は、すでに張りを失いかけていた。
鱗の光も鈍く、指で押せばすぐに形が崩れそうな気配がある。
猫猫は小さく息を吐いた。
普通の料理人なら、この魚を見た瞬間に眉をひそめるだろう。
ところが、変装した料理人は違った。
顔の下半分を覆う布の奥から、視線だけが静かに魚へ落ちている。
焦る様子もなければ、困った様子もない。
まるで、この状態が問題にならないとでも言うような落ち着きだった。
猫猫は視線を少しずらす。
料理人の腰に差してある包丁が目に入った。
普通の包丁とは違う。
鞘の形が妙に古めかしく、金属の表面には細かな紋様が刻まれている。
「……」
猫猫は無意識に目を細めた。
料理人の手が動いた。
ゆっくりと鞘を抜く。
次の瞬間、調理場の空気がわずかに変わった。
刃が現れる。
薄く長い刃の中央には、龍の紋章が静かに浮かび上がっていた。
灯りを受けた刃が淡く輝き、その光が鱗の上に揺れる。
周囲に小さなどよめきが広がる。
特使が眉をひそめた。
壬氏は黙ったまま、その刃を見つめている。
高順の視線も、いつの間にか包丁へ向いていた。
猫猫は瞬きを一つした。
見たことがない。
しかし、妙な違和感が胸の奥に残る。
料理人は周囲の反応をまったく気にしていない。
静かな動作で鯛の尾を押さえると、刃を鱗へ当てた。
次の瞬間、鱗が一息で剥がれ落ちた。
普通なら力を入れて削るところを、刃はほとんど抵抗なく滑っていく。
金属が触れる音すら、ほとんど聞こえなかった。
猫猫は思わず魚の身を覗き込む。
鱗を取られた部分の皮が、わずかに光っていた。
料理人の手は止まらない。
鱗を取り終えると、今度は刃を腹へ入れる。
刃先が鯛の身へ沈む。
その瞬間だった。
猫猫の目が見開かれる。
切り開かれた身の色が変わっていた。
先ほどまで鈍く濁っていた白身が、まるで水を吸ったように透き通り始める。
張りを失っていた肉が、ゆっくりと形を取り戻していく。
猫猫は思わず呟いた。
「……嘘」
隣で壬氏が低く息を吐いた。
特使の表情も、さすがに動いている。
だが、当の料理人は何事もなかったかのように包丁を動かしていた。
切り身を整え、骨の位置を確かめ、無駄なく身を外していく。
動きに迷いはなく、刃の軌跡はまるで決まっているかのようだった。
猫猫は魚の身を見つめたまま、言葉を失っていた。
あり得ない。
鮮度が落ちていたはずの身が、今はまるで水揚げされた直後のように張っている。
皮の下で光が弾き、白身の奥に透明な艶が戻っていた。
その時、背後で軽い笑い声が響く。
「驚くのも無理はない」
漢羅漢だった。
扇を軽く振りながら、楽しそうに周囲を見渡している。
「それは普通の包丁ではない」
特使が低く問い返す。
「……何だというのだ」
羅漢は肩をすくめる。
「伝説の厨具だよ」
その言葉で調理場の空気がさらに重くなった。
羅漢はゆっくりと刃を指した。
「その名を、永霊刀という」
猫猫はもう一度包丁を見た。
刃の中央に刻まれた龍の紋章が、灯りの中で静かに光っている。
「魚介の時間を取り戻す刃」
羅漢は続けた。
「ただし、誰でも使えるわけではない」
扇が閉じられる。
「その刃は、腕を認められた料理人にしか応えない」
特使の視線が料理人へ向いた。
料理人は相変わらず無言のまま、手を動かしている。
身を整え、皿を用意し、蒸籠の支度を始めていた。
その動きは、まるで周囲の驚きが存在しないかのように淡々としている。
猫猫はその背中を見つめていた。
魚の鮮度を取り戻す包丁。
そんなものがあるなど、普通なら笑い飛ばす話だ。
だが、目の前の鯛がすでに答えを出している。
料理人は最後の切り身を整えると、ゆっくりと皿へ並べた。
そして初めて、口を開く。
声は低く、落ち着いていた。
「料理の名は」
一瞬の静寂が落ちる。
猫猫は息を止めた。
料理人の手が皿の縁へ触れる。
「銀鱗双式」
その名が調理場に静かに落ちた。
完成した料理の香りが、ゆっすらと立ち上る。
だが、その味を知る者はまだいない。
宴の空気は、次の瞬間を待っていた。