蒸籠の蓋がゆっくりと持ち上げられた瞬間、調理場の空気がわずかに変わった。
白い湯気が静かに立ちのぼり、その奥から淡い光を帯びた皿が姿を現す。
猫猫は無意識のうちに一歩だけ近づいた。
皿の上に並んでいるのは、薄く引かれた鯛の身と、蒸された身が整然と分けられた二皿の料理である。
切り身は薄く、まるで水面に落ちた月光をそのまま固めたように透き通っていた。
蒸された方の身は淡い白を保ったまま、表面に柔らかな艶をまとっている。
猫猫は皿を見つめながら、小さく息を吸った。
鮮度が落ちていた魚とは、とても思えない。
先ほどまでまな板の上に置かれていた鯛は、明らかに疲れた魚だった。
ところが今、皿の上にある身は、水揚げされた直後の魚のような張りを取り戻している。
「ほう」
特使が静かに声を漏らした。
その目は、皿の上の切り身から離れない。
壬氏は腕を組んだまま黙っているが、その視線も同じ場所に落ちていた。
高順も口を開かず、料理人の動きを観察している。
変装した料理人――マオは、何も言わない。
皿を整えると、静かに一歩だけ下がった。
その沈黙が、かえって料理の存在感を際立たせていた。
羅漢が扇を軽く振る。
「どうぞ」
特使はしばらく皿を見ていたが、やがて箸を伸ばした。
最初に選んだのは、薄く引かれた鯛の身だった。
箸が切り身を持ち上げる。
その瞬間、猫猫は気づいた。
身が崩れない。
刺身のように薄いのに、切り身がしっかりと形を保っている。
しかも光の当たり方によって、表面に微かな透明感が浮かんでいた。
特使はそのまま口へ運ぶ。
調理場の空気が静かに止まった。
猫猫は思わず特使の顔を見た。
特使は咀嚼している。
しかし、すぐには言葉を出さなかった。
その沈黙が、周囲の緊張をさらに引き伸ばす。
やがて特使の眉がわずかに動いた。
「……」
言葉は出ない。
ただ、もう一度箸が皿へ伸びる。
猫猫はその様子を見て、皿の切り身をもう一度観察した。
鯛の身からは、ほんのりとした甘い香りが立っている。
魚の脂の匂いではない。
新鮮な白身魚特有の、澄んだ甘味の香りだった。
猫猫の舌が、記憶を引き出す。
これは、水揚げされたばかりの魚の香りだ。
あり得ない。
猫猫は心の中で呟いた。
さっきまでの魚は、明らかに鮮度が落ちていた。
あの状態から、この香りが出るはずがない。
特使が箸を止めた。
ゆっくりと顔を上げる。
その目は、料理人ではなく皿を見ていた。
そして今度は蒸された鯛の身へ箸を伸ばす。
白い身が箸で持ち上がる。
蒸し料理ならば、身は柔らかく崩れるはずだった。
ところが、その身はゆっくりと弾力を返している。
箸が軽く押されると、魚の身がわずかに跳ね返った。
猫猫は息を止めた。
特使が口へ運ぶ。
蒸された鯛の身が、静かに咀嚼される。
今度も、すぐには言葉が出ない。
調理場の中に沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、羅漢がゆっくりと口を開いた。
「永霊刀」
扇が軽く鳴る。
「魚介の時間を取り戻す刃だ」
特使はまだ黙っている。
羅漢は楽しそうに続けた。
「ただし、誰でも扱える道具ではない」
扇の先が料理人へ向いた。
「腕を認められなければ、刃はただの鉄になる」
猫猫は料理人の手を見た。
動きは静かで、無駄がない。
料理を誇示する気配はない。
ただ、料理を作っただけという態度だった。
特使がゆっくりと息を吐いた。
そして、皿へもう一度箸を伸ばす。
今度は言葉が落ちた。
「なるほど」
短い一言だった。
だが、その声には先ほどまでの疑念が混ざっていない。
壬氏が猫猫をちらりと見る。
猫猫は小さく首を傾けた。
理解はしている。
だが納得はしていない。
猫猫の視線は、料理人の腰へ向いた。
あの包丁。
あれが奇跡の理由なのか。
それとも、この料理人の腕なのか。
猫猫にはまだ判断がつかない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
皿の上の鯛は、まるで先ほどまで生きていたかのように新鮮だった。
そして特使は、もう一度箸を伸ばしていた。
料理人は相変わらず無言のまま立っている。
まるで、すべてが当然の結果であるかのように。
その静かな態度が、かえって調理場の空気を重くしていた。
羅漢が扇を閉じる。
「さて」
その声は軽い。
「特級厨師の料理としては、どうかな」
特使は皿を見つめたまま答えた。
「……十分だ」
調理場の空気が、ゆっくりと動き始めた。