薬屋と料理人は幼馴染み   作:ボルメテウスさん

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月の宴会 五

蒸籠の蓋がゆっくりと持ち上げられた瞬間、調理場の空気がわずかに変わった。

白い湯気が静かに立ちのぼり、その奥から淡い光を帯びた皿が姿を現す。

 

猫猫は無意識のうちに一歩だけ近づいた。

皿の上に並んでいるのは、薄く引かれた鯛の身と、蒸された身が整然と分けられた二皿の料理である。

 

切り身は薄く、まるで水面に落ちた月光をそのまま固めたように透き通っていた。

蒸された方の身は淡い白を保ったまま、表面に柔らかな艶をまとっている。

 

猫猫は皿を見つめながら、小さく息を吸った。

鮮度が落ちていた魚とは、とても思えない。

 

先ほどまでまな板の上に置かれていた鯛は、明らかに疲れた魚だった。

ところが今、皿の上にある身は、水揚げされた直後の魚のような張りを取り戻している。

 

「ほう」

 

特使が静かに声を漏らした。

その目は、皿の上の切り身から離れない。

 

壬氏は腕を組んだまま黙っているが、その視線も同じ場所に落ちていた。

高順も口を開かず、料理人の動きを観察している。

 

変装した料理人――マオは、何も言わない。

皿を整えると、静かに一歩だけ下がった。

 

その沈黙が、かえって料理の存在感を際立たせていた。

 

羅漢が扇を軽く振る。

 

「どうぞ」

 

特使はしばらく皿を見ていたが、やがて箸を伸ばした。

最初に選んだのは、薄く引かれた鯛の身だった。

 

箸が切り身を持ち上げる。

 

その瞬間、猫猫は気づいた。

 

身が崩れない。

 

刺身のように薄いのに、切り身がしっかりと形を保っている。

しかも光の当たり方によって、表面に微かな透明感が浮かんでいた。

 

特使はそのまま口へ運ぶ。

 

調理場の空気が静かに止まった。

 

猫猫は思わず特使の顔を見た。

 

特使は咀嚼している。

しかし、すぐには言葉を出さなかった。

 

その沈黙が、周囲の緊張をさらに引き伸ばす。

 

やがて特使の眉がわずかに動いた。

 

「……」

 

言葉は出ない。

 

ただ、もう一度箸が皿へ伸びる。

 

猫猫はその様子を見て、皿の切り身をもう一度観察した。

鯛の身からは、ほんのりとした甘い香りが立っている。

 

魚の脂の匂いではない。

新鮮な白身魚特有の、澄んだ甘味の香りだった。

 

猫猫の舌が、記憶を引き出す。

 

これは、水揚げされたばかりの魚の香りだ。

 

あり得ない。

 

猫猫は心の中で呟いた。

 

さっきまでの魚は、明らかに鮮度が落ちていた。

あの状態から、この香りが出るはずがない。

 

特使が箸を止めた。

 

ゆっくりと顔を上げる。

 

その目は、料理人ではなく皿を見ていた。

 

そして今度は蒸された鯛の身へ箸を伸ばす。

 

白い身が箸で持ち上がる。

 

蒸し料理ならば、身は柔らかく崩れるはずだった。

ところが、その身はゆっくりと弾力を返している。

 

箸が軽く押されると、魚の身がわずかに跳ね返った。

 

猫猫は息を止めた。

 

特使が口へ運ぶ。

 

蒸された鯛の身が、静かに咀嚼される。

 

今度も、すぐには言葉が出ない。

 

調理場の中に沈黙が落ちる。

 

その沈黙の中で、羅漢がゆっくりと口を開いた。

 

「永霊刀」

 

扇が軽く鳴る。

 

「魚介の時間を取り戻す刃だ」

 

特使はまだ黙っている。

 

羅漢は楽しそうに続けた。

 

「ただし、誰でも扱える道具ではない」

 

扇の先が料理人へ向いた。

 

「腕を認められなければ、刃はただの鉄になる」

 

猫猫は料理人の手を見た。

 

動きは静かで、無駄がない。

 

料理を誇示する気配はない。

ただ、料理を作っただけという態度だった。

 

特使がゆっくりと息を吐いた。

 

そして、皿へもう一度箸を伸ばす。

 

今度は言葉が落ちた。

 

「なるほど」

 

短い一言だった。

 

だが、その声には先ほどまでの疑念が混ざっていない。

 

壬氏が猫猫をちらりと見る。

 

猫猫は小さく首を傾けた。

 

理解はしている。

だが納得はしていない。

 

猫猫の視線は、料理人の腰へ向いた。

 

あの包丁。

 

あれが奇跡の理由なのか。

それとも、この料理人の腕なのか。

 

猫猫にはまだ判断がつかない。

 

ただ一つだけ、確かなことがある。

 

皿の上の鯛は、まるで先ほどまで生きていたかのように新鮮だった。

 

そして特使は、もう一度箸を伸ばしていた。

 

料理人は相変わらず無言のまま立っている。

 

まるで、すべてが当然の結果であるかのように。

 

その静かな態度が、かえって調理場の空気を重くしていた。

 

羅漢が扇を閉じる。

 

「さて」

 

その声は軽い。

 

「特級厨師の料理としては、どうかな」

 

特使は皿を見つめたまま答えた。

 

「……十分だ」

 

調理場の空気が、ゆっくりと動き始めた。

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