宴のざわめきがゆっくりと落ち着き始めたころ、猫猫は壁際の影に立ったまま、先ほどまで料理が置かれていた卓を見ていた。
皿の上にはもう鯛の身は残っておらず、薄く残った香りだけが調理場の空気に漂っている。
先ほどまでの出来事を思い返すと、猫猫の胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。
あの鯛は、まな板に乗せられたときには明らかに鮮度が落ちていたはずである。
ところが包丁が入った瞬間、魚の身はまるで別物のように張りを取り戻した。
猫猫はその光景をはっきりと見ている。
羅漢が語った言葉も思い出す。
永霊刀という伝説の厨具が魚介の時間を取り戻す刃であるという説明は、確かに理屈としては通っていた。
しかし猫猫の頭に残っている違和感は、そこではなかった。
猫猫はゆっくりと視線を横へ動かす。
調理場の隅で、変装した料理人が静かに道具を片付けていた。
顔の下半分を覆った布の向こうで、その人物は最後まで言葉を発していない。
壬氏も高順も、その正体を問いただすことはしなかった。
特使もまた料理の味に納得したのか、それ以上の詮索をする様子は見せていない。
宴は表向き何事もなく進み、ただ料理人の腕前だけが話題に残っている。
猫猫は腕を組みながら、その背中をじっと見つめていた。
料理人が鯛を捌くときの動きを思い出す。
刃が魚の背へ入る瞬間、その人物は一度だけ身を引き寄せるように魚を支えた。
あの動きは、魚の身を傷めないための癖だ。
魚を扱う料理人はそれぞれ独特のやり方を持っているが、同じ癖が重なることはあまりない。
猫猫はその癖を知っていた。
鯛の背へ刃を入れる直前、魚の身をわずかに持ち上げて重みを逃がす仕草。
そして、背骨に沿って刃を流すときの微妙な角度。
あれは、どこかで見たことがある。
猫猫の頭の中に、見慣れた調理場の光景が浮かんだ。
火の前で黙々と魚を捌く少年の姿。
猫猫は無意識のうちに小さく息を吐いた。
「……なるほど」
声には出さないが、思考の中ではほとんど答えが出ている。
ただし断言するには、もう少しだけ材料が欲しかった。
猫猫はさらに観察を続ける。
料理人は蒸籠を片付けると、包丁を布で拭き始めた。
その動作は丁寧で、刃を扱う者特有の慎重さがある。
猫猫の視線が自然とその手へ落ちた。
指の動きは柔らかい。
だが、力を入れるところと抜くところの切り替えがはっきりしている。
その癖を、猫猫は何度も見てきた。
料理人が包丁を鞘へ納めると、調理場の灯りが一瞬だけ刃に反射した。
その光が消えると同時に、猫猫の中で何かがはっきりと繋がる。
永霊刀の力も確かに驚くべきものだ。
しかし、あの包丁があったとしても、あの手順で魚を扱える料理人はそう多くない。
猫猫は視線を少しだけ細めた。
体格は小柄。
動きは無駄がない。
魚を扱うときの癖は、あの少年とほとんど同じだった。
猫猫の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
声には出さないが、ほとんど確信に近い。
ただし今ここでその名前を口にする理由はなかった。
変装した料理人が道具を片付け終え、静かに振り返る。
その瞬間、猫猫と視線がぶつかった。
ほんの一瞬だけだった。
料理人の目がわずかに細くなる。
それが笑ったのか、驚いたのかは分からない。
猫猫は何も言わない。
ただ肩をすくめるように小さく息を吐いた。
まるで「分かっている」とでも言うような、そんな沈黙だった。
料理人はそれ以上何もせず、再び視線を外す。
そして何事もなかったかのように背を向けた。
猫猫はその背中を見送りながら、静かに呟く。
もちろん誰にも聞こえない声だった。
「……やっぱり、あんたじゃない」
言葉の形は否定でも、意味はほとんど肯定に近い。
猫猫の目には、もう十分すぎるほどの答えが映っていた。
しかし、その名前を口にする必要はない。
料理人の正体は、今のままでいい。
猫猫は腕を解くと、ゆっくりと調理場を後にした。