調理場の奥では、まだ蒸籠の余熱が残っていた。
猫猫が足を踏み入れると、薄く残った魚の香りが静かに鼻をかすめる。
宴の喧騒はすでに遠のいており、ここにはいつもの静けさが戻り始めていた。
ただ、その空気の中に、わずかに張りつめたものが残っている。
奥で背を向けていた男が、包丁を布で拭いている。
顔の下半分を覆っていた布は外され、見慣れた横顔がそこにあった。
猫猫は何も言わず、そのまま歩み寄る。
足音を消すつもりもないが、わざわざ声をかけることもしなかった。
「……猫姉?」
振り返ったマオが、少しだけ驚いたように目を丸くする。
その表情は、いつもと変わらない。
「どうしたんだよ。
宴の方はもう終わったのか」
軽い調子で言いながら、包丁を鞘へ納める。
まるで何もなかったかのような態度だった。
猫猫はその様子をじっと見ていた。
それから、わずかに首を傾ける。
「終わったわよ。
あんたのおかげでね」
「それはよかった。
……って、あんたのおかげって、俺関係あるのか?」
マオが笑いながら言う。
その軽さが、かえって違和感を際立たせる。
猫猫は一歩だけ距離を詰めた。
視線を逸らさず、そのまま口を開く。
「マオ」
呼び方は、いつも通りだった。
「……あんたって、特級厨師になったんだ」
その一言で、空気が止まる。
次の瞬間、マオが盛大にむせた。
「ごほっ、えっ、な、なんで……っ」
慌てて口元を押さえながら、何とか咳を収めようとする。
さっきまでの余裕は、きれいに吹き飛んでいた。
猫猫はその様子を見下ろしながら、少しだけ口元を緩める。
「隠してたつもり?」
「いや、隠してたよ!
ていうか、なんで分かったんだよ……」
声が少し裏返っている。
動揺しているのが丸分かりだった。
猫猫は肩をすくめた。
「分かるっての」
短く言ってから、わずかに間を置く。
「……あんたの料理、見たらね」
マオは言葉を失ったまま、猫猫を見る。
その顔には、驚きと、少しの諦めが混ざっていた。
猫猫は続ける。
「魚の身の引き方、刃の入れ方、順番。
全部見覚えがあるのよ」
静かな声だったが、否定の余地はない。
マオはしばらく黙っていた。
それから、ふっと息を抜く。
「……さすが、猫姉」
苦笑いが浮かぶ。
「敵わないや」
その言い方には、悔しさよりも納得が近い。
隠し通すつもりだったわけではないが、こうもあっさり見抜かれるとは思っていなかったのだろう。
猫猫は腕を組んだまま、少しだけ視線を逸らす。
「まぁ、別に誰かに言うつもりはないわよ」
「助かる……」
マオが心底ほっとしたように肩を落とす。
その様子を見て、猫猫は小さく息を吐いた。
「この前は、私の話をしたでしょ」
「ん?」
「薬のこととか、毒のこととか」
マオがうなずく。
「ああ、あったな」
猫猫は視線を戻した。
その目は、少しだけ興味を帯びている。
「今度は、あんたの話を聞かせて頂戴」
マオは一瞬だけきょとんとした顔をした。
それから、困ったように笑う。
「……そんな大した話じゃないぞ」
「決めるのは私よ」
猫猫の返しは即答だった。
そのやり取りのあと、しばらく沈黙が落ちる。
調理場には、もう火の音も人の気配もない。
ただ、包丁が鞘に収まったまま静かに置かれている。
マオはその包丁を一度だけ見た。
それから猫猫へ視線を戻す。
「……分かったよ」
その声は、さっきまでより少しだけ落ち着いていた。
猫猫はそれ以上何も言わない。
ただ、小さく頷くだけだった。
調理場の空気が、ゆっくりと元に戻っていく。