調理場の火はすでに落ちており、残っているのは温もりだけだった。
猫猫は壁際に寄りかかるように立ち、片付けを続けるマオの背中を眺めている。
包丁の音も消え、静かな時間が流れていた。
少し間を置いてから、猫猫が口を開く。
「それにしても、あんたが修業していた場所って、どういう場所なの」
問いは軽い。
だが、ただの雑談ではないことは分かる。
マオは手を止めずに答えた。
「陽泉酒家だよ。特級厨師で、その腕前は広州でも随一って言われてるチョウユさんのところで修業してたんだ」
猫猫は眉をわずかに動かす。
「へぇ、結構すごい所でやってるのね」
感心しているようで、どこか温度が低い。
マオが苦笑する。
「猫姉、あんまり興味なさそうだよな」
「料理に詳しい訳じゃないからね」
猫猫は肩をすくめた。
「まぁ、マオの料理が美味くなったのも、その人のおかげなんでしょ」
「ああ」
マオは少しだけ顔を上げた。
「俺にとっては、憧れの師匠だよ」
その言い方には、ほんのわずかに熱が混じる。
猫猫はその変化を見逃さない。
「そりゃ、良かった」
短く返す。
マオは少し笑ってから、視線を落とした。
「けど、陽泉酒家は、ある意味で全部の始まりなんだ」
猫猫が首を傾ける。
「というと」
「特級厨師の試験を受けるきっかけも、伝説の厨具を手に入れる旅も、それから――」
そこで一度、言葉が止まる。
「裏料理界との戦いも、全部そこからだ」
猫猫の目が、わずかに細くなる。
「裏料理界?」
聞き返し方が少し変わった。
「何それ。名前からして碌でもなさそうだけど」
「まぁ、だいたい合ってる」
マオは苦笑する。
「料理で勝負するんだけどさ、普通じゃないんだ」
「普通じゃない、ね」
猫猫は壁から背を離した。
「毒でも使うの?」
間を置かずに切り込む。
マオは少しだけ目を瞬かせた。
「……使うやつもいた」
その一言で、空気が変わる。
猫猫の視線が鋭くなる。
「どんな毒」
問いが短くなる。
マオは少し考えたあと、ゆっくりと話し始める。
「香りで誤魔化すタイプだな。見た目も味も普通なのに、食べたあとにじわじわ効いてくる」
猫猫の指がわずかに動く。
「症状は」
「最初は舌が少し痺れるくらいだけど、そのあと喉が締まる感じになる。呼吸が浅くなって――」
「収れん系ね」
猫猫が途中で言葉を挟む。
マオは少しだけ驚いた顔をした。
「……多分、それに近い」
猫猫は小さく息を吐いた。
「で、どうやって見抜いたの」
「香りの奥に、変な引っかかりがあったんだよ。料理としてはまとまってるのに、どこかだけ浮いてる感じで」
猫猫は無言で頷く。
「それで」
「食べる前に気づいて、調理をやり直させた」
猫猫の視線が少しだけ緩む。
「死ぬ前で良かったじゃない」
軽く言うが、その言葉は軽くない。
少しの間が落ちる。
マオが話題を変えるように口を開いた。
「あと、あの包丁な」
猫猫の目がすぐに動く。
「永霊刀?」
「そう」
マオは手元の布を折りながら続ける。
「ただの道具じゃなくてさ、使う側も試されるんだ。あれを扱う資格があるかどうか」
「便利すぎる道具は信用できない」
猫猫が即座に返す。
マオは少し笑った。
「猫姉らしいな」
「で、どうやって認められたの」
「魚を使った試験だったよ。技術だけじゃなくて、どう扱うかも見られてた」
猫猫は腕を組む。
「道具に頼るんじゃなくて、扱う側の問題ってことね」
「そんな感じ」
また少し、静かな間が流れる。
マオがぽつりと続けた。
「あとさ、料理で助かった人もいる」
猫猫の視線が上がる。
「薬じゃなくて?」
「料理でも、できることはある」
マオの言い方は静かだったが、どこか揺るがないものがある。
猫猫はしばらく何も言わなかった。
その沈黙は、否定でも肯定でもない。
やがて、小さく息を吐く。
「……面倒ね」
短い言葉だった。
だが、そのまま続ける。
「でも、嫌いじゃない」
マオが少しだけ驚いたように目を開く。
猫猫は視線を逸らした。
「理屈が通るなら、それでいい」
少しだけ間を置く。
「それに、実際に助かってるなら、文句はない」
マオは小さく笑った。
「ありがとな」
「礼を言われることはしてない」
猫猫はそっけなく返す。
調理場の空気が、少しだけ緩む。
猫猫は壁から離れ、出口の方へ歩き出す。
その途中で、ふと足を止めた。
「次はもう少し詳しく聞くわ」
振り返らないまま言う。
「どうやってそこまで行ったのか」
マオは少しだけ考えてから、答える。
「長くなるぞ」
「構わない」
猫猫は短く言った。
「暇なときにでも聞く」
その言葉を残して、調理場から出ていく。
静けさが戻る。
マオはしばらくその場に立ったまま、何もせずにいた。
それから、小さく息を吐く。
「……猫姉には敵わないな」
誰もいない調理場に、その声だけが残った。