後宮の朝は早いのに、眠気が残る種類の静けさがあるから厄介だと、僕はこの場所で少しずつ学んできた。
目を覚ますのは人のほうで、建物のほうは最初から起きていて、こちらが起きるのを黙って待っているみたいに感じる。
水晶宮の騒ぎが片づいた直後から、廊下の空気は甘い香油の匂いに戻ったはずなのに、どこかに薬草の乾いた気配が引っかかったままだ。
料理人の鼻は贅沢だと言われるけれど、贅沢だからこそ変なものも拾ってしまい、拾ったものは放っておけなくなる。
僕はもう客扱いされる時期を過ぎていて、厨房の人間からは半分同僚、半分よく分からない助っ人として扱われている。
正体を知らない人が多いのは、僕にとってはありがたいし、後宮の人たちにとってもたぶん都合がいいのだろう。
ただ、知らないふりをしているだけで知っている顔もいて、噂というのは火より早く回るのだと分かる。
それでも、厨房で鍋を振るう時間だけは誰も余計な詮索をしないから、僕はそこで息ができる。
朝の仕込みに混ざると、古参の料理人が「坊主、今日は刻みを頼むぞ」と当然みたいに言ってくれる。
坊主と呼ばれるのは嫌いじゃないし、ここでは名前の重さが軽いほうがいいと、猫猫に何度も言われている。
刻み台に向かう途中で、小麦粉の匂いと生姜の鋭さが混ざり、いつもなら腹が鳴るのに、今日はそれが少し遅れてくる。
腹が鳴る前に鼻が嫌がるということは、だいたい誰かが余計なことをしている。
棚のほうへ視線を投げると、香油の瓶がいつも通り並んでいるのに、一本だけ艶が重く見えた。
油の艶なんて光の加減でいくらでも変わるはずなのに、重く見える時は大抵、油ではないものがそこにいる。
僕が一歩踏み出しかけたところで、背後からひそやかな足音が近づき、空気の温度が一段だけ冷えた。
この冷え方を知っているから、振り向く前に僕は少しだけ笑ってしまう。
「猫姉」
呼んだ瞬間に肘が入るかと思ったけれど、今日は肘ではなく、指先が僕の袖をつまんで止めた。
猫猫が僕の動きを止める時は、怒っている時より忙しい時のほうが多いので、僕は余計なことを言わないように口を閉じた。
「近い、吸い込みすぎると鈍る」
「分かったよ、猫姉」
猫猫は僕の返事に満足した様子もなく、香油の瓶へ顎をしゃくって、さっさと仕事を進めろと言わんばかりの顔をした。
猫猫は後宮の空気を読むのが上手いというより、空気の裏側にある汚れを嗅ぎ分けるのが上手い。
だから僕が何かを感じた時は、だいたい猫猫も先に感じていて、僕はその後ろを追いかけることになる。
「これ、甘い匂いの奥に薬がいる」
「混ざった匂いじゃないね、擦り付けた匂いだよ」
僕は瓶に触れる前に周囲を見回し、誰がこちらを見ているかを確かめてから指先で口元をなぞった。
厨房の人たちは僕の動きに慣れているけれど、慣れた目ほど意地が悪くて、違和感があればすぐに話の種にする。
猫猫が自分では瓶に触れないのも、触れた瞬間に疑いが貼り付くのを知っているからで、そこがこの場所の面倒なところだ。
「触った時点で疑われるのは触った人間だぞ」
「じゃあ僕が触るよ、疑われ役なら慣れてる」
「誇るな、そういうのは」
猫猫の声は淡々としているのに、叱られている感じだけは昔と変わらないから、僕は少しだけ背筋が伸びた。
幼い頃は叱られる理由が分からなくて腹が立ったのに、今は叱られる理由が分かるから余計に厄介だ。
香油の匂いは確かに甘いのに、その奥に乾いた薬草の筋が一本だけ通っていて、鼻の奥がざらつく。
「毒かな」
僕が言うと、猫猫は首を振るというより、空気を切るみたいに視線を払った。
「毒と決めるのは早い、殺す気ならもっと簡単にできる」
猫猫の言葉はいつも結論から来るから、僕はそれを料理の工程に置き換えて理解する癖がついた。
殺すなら一口目で終わるのに、わざわざ後味を残すのは、狙いが命ではなく場の流れにある時が多い。
後宮の宴は料理の出来で終わるのではなく、料理が作った空気で次の争いが始まる。
「宴で効かせるなら、何分後に症状を出したいかが肝だよ」
「……役に立つ」
「褒めた?」
「褒めてない、使えると言っただけ」
猫猫がそう言うと、なぜか僕は安心してしまうから不思議で、安心してしまうのがたぶん危険なのだろう。
猫猫は優しくないけれど、必要なことは必ず言うし、言ったことを必ず自分でも守る。
後宮でそれがどれだけ貴重か、僕は厨房の人間の顔を見れば分かる。
ちょうどその時、仕込みの指示を飛ばしていた料理長がこちらに近づき、瓶を見て眉をひそめた。
料理長は僕の身分を知らないし、知らないままでいてくれるけれど、僕が香りに敏いことは知っている。
「坊主、何か変か」
「少しだけ、香りの筋が違うね」
「面倒が増える匂いか」
料理長は冗談みたいに言って笑い、笑いながらも瓶を触らずに棚の配置を変え、誰が近づいたかを洗い出すように動き始めた。
こういう時、厨房の人間は後宮の役人よりもよほど現実的で、現実的だからこそ生き残っている。
僕がここで仲良くできているのは、腕を認められたからというより、余計な理屈を振り回さないからだと思う。
猫猫が小さく息を吐き、懐へ布を滑り込ませたのが見えたので、僕はそれが証拠だと察して頷いた。
証拠を隠す動作が手慣れているのは褒めるべきことじゃないけれど、後宮では手慣れていないと死ぬ。
「囮の膳を作る、反応の差で動かす」
猫猫はそう言い切り、僕の顔を見ずに火口のほうへ視線を投げた。
僕は火が好きだし、火の前なら余計な感情が燃えて消えてくれるから、猫猫のこの指示はありがたい。
「味は落とす?」
僕が聞くと、猫猫は即答してくる。
「落とせるなら落として」
「それは無理だよ、僕が作るなら美味くする」
猫猫は溜息をつき、溜息の形だけで諦めるのが上手い。
諦めるのが上手いのに、諦めたことを放置しないのが猫猫で、そこが僕には眩しく見える時がある。
「じゃあ目立つな、余計なことも言うな」
「噂なら料理に向けさせるよ、胃袋の噂は素直に走るから」
僕がそう言うと、料理長が遠くで笑い、他の料理人たちが鍋の音を少しだけ大きくした。
その反応が悪意ではなく、いつもの調子であることが嬉しくて、僕は包丁を持つ手に余計な力を入れないようにした。
猫猫は香油の瓶を見下ろし、目だけで一点を刺している。
猫猫が一点を刺す時は、そこに必ず人の癖があるから、僕はその癖を皿の上に引きずり出すことを考えた。
美味い囮は囮に見えず、囮に見えない囮は相手の指を勝手に動かすので、僕の得意分野に近い。
猫猫が小さく言う。
「触った奴は、必ずまた触る」
僕は火を見つめたまま頷き、鍋に落ちる油の音で返事を隠した。
「じゃあ僕は、また触らせる皿を作るよ」
水晶宮の騒ぎは終わったのに、後味だけが残っていて、残った後味が次の一口を勝手に呼び寄せる。
後宮の料理は腹を満たすためにあるのに、腹以外まで満たしてしまうことがあるから、僕はこの場所が少しだけ怖い。
それでも怖いなら包丁を握るなと言われたら、たぶん僕は笑ってしまうので、結局どうしようもないのだろう。