水晶宮の後味が舌に残ったまま、俺はいつものように厨房へ足を踏み入れていた。
ここで過ごす時間が増えるほど、後宮の怖さより先に、鍋の音の安心が耳へ馴染んでしまう。
それが良いことなのか悪いことなのかを判断する前に、俺の手は勝手に刻み台へ向かっていた。
古参の料理人が俺を見つけると、面倒そうに顎をしゃくりながらも目は笑っている。
俺の正体を知らないままでも、俺が火と包丁に嘘をつかないことだけは分かってくれているらしい。
「坊主、今日は魚だ、蒸し場を手伝え」
「了解だよ、魚の顔を見てから決めたい」
返事をした瞬間、背中側の空気が冷たくなる気配がして、俺は包丁を置く動作を少しだけ丁寧にした。
猫猫は足音で人を驚かせるタイプではないのに、近づくと周囲の温度が下がるから不思議だ。
「昨日の香油、まだ気になる」
猫猫はそう言い、棚のほうへ視線を投げてから俺の指先の動きを見た。
「気になるよ、匂いの筋が綺麗すぎる」
俺が小声で返すと、猫猫は頷いたが、それは同意ではなく次の手順の合図に近かった。
「炙れ、二回やれ、逃げ道を削れ」
猫猫の指示は短いのに、短いぶんだけ後宮の現実が詰まっている。
俺は蒸し場へ向かいながら、二回の熱油で香りを立てる段取りを頭の中で組み立てた。
一回目は普段どおりに見せて油断させ、二回目で匂いの底を掘り返すほうが、相手の指を勝手に動かせる。
それでも二回目は手間が増えるし、手間が増えるほど目撃者も増えるから、俺の立場には本来向かない。
ただ、猫猫が「やれ」と言う時は、やらないほうがもっと面倒になると決まっている。
白身魚の鱗を落とし、腹の匂いを確かめ、身の張りから蒸し時間を決める作業は、俺にとって呼吸に近い。
厨房の仲間がそれを眺め、余計な詮索をせずに塩や葱を差し出してくれるので、俺は余計にこの場所が好きになる。
好きになるほど危ないのだと分かっていても、鍋の前ではその理屈が薄くなるから厄介だ。
俺は葱と生姜を山のように刻み、魚の上へふわりと乗せて、蒸気の立つ甑へ滑り込ませた。
蒸し上がりの時間を待つ間に、香油の瓶を二つ用意し、片方はいつもの棚の安全なもの、もう片方は例の棚のものにした。
猫猫は瓶に触れず、瓶の口元の油膜だけを目で追っていて、その視線の鋭さが俺の背中を少しだけ固くする。
「一回目は普通に仕上げる、二回目で温度をずらすよ」
「温度をずらすなら、匂いが跳ねるほうへ寄せろ」
猫猫は淡々と言い、誰かに聞かれてもただの調理指示にしか見えないように声の高さを揃えた。
甑の蓋を開けた瞬間、魚の白い湯気が立ち上がり、葱生姜の香りが蒸気の中で柔らかく広がった。
俺は一回目の熱油を普通の温度で回しかけ、香りを整えながら、周囲の目が「旨そうだ」に傾くのを確認した。
この「旨そうだ」に傾いた時、人は警戒を忘れ、忘れた隙間に指が滑り込むことがある。
料理長が皿を覗き込み、短く息を吐いたが、その吐き方が満足寄りだと俺は判断した。
厨房の空気が和むと同時に、外側の耳が「評判」という形で寄ってくるのも後宮の癖だ。
「坊主、上等だ、これなら宴の試しになる」
「まだ終わってないよ、二回目がある」
俺がそう言うと、料理長は眉を上げたが、止めはしなかった。
止めないということは、俺の手際に任せるということであり、その信頼が嬉しいぶんだけ喉の奥が少し痛む。
二回目の熱油は、香りが立ち上がりやすい温度帯へ寄せ、油の表面が一瞬で揺れる手前で火を止めた。
その瞬間、俺の鼻は甘い匂いの奥に、乾いた薬草の筋がほんの一息だけ濃くなるのを捉えた。
匂いは一瞬で薄くなるが、一瞬だからこそ隠しきれず、隠しきれないものは必ず人を焦らせる。
「今、来た」
俺が小さく言うと、猫猫の目がほんの少しだけ細くなり、次の瞬間には平らな表情へ戻った。
「匂いの筋が立った、布と柄杓を見ろ」
猫猫はそう言い、誰にも怪しまれないように鍋の周りへ視線を散らした。
俺は熱油を回しかけ、香りの山をもう一段だけ高くしたが、その香りの中で薬草の渋さが薄く残った。
猫猫が鼻を動かしたのが分かり、彼女が「確信寄り」に寄ったのを俺は体感として受け取った。
確信寄りに寄った時、猫猫は声を荒げず、手順を増やすことで人を追い詰める。
料理長が柄杓の置き方を変え、火口の周りの布をさりげなく回収する動作を見せた。
職人は口より先に手が動くから、こういう時に頼もしいし、頼もしいからこそ俺は余計に守りたくなる。
守りたいと思った時点で後宮では負けることがあるのに、俺はその負けをまだ怖がり切れていない。
猫猫が皿を口へ運ぶふりをして香りだけを嗅ぎ、味見の言葉を一切口にしなかった。
褒めないのは意地ではなく、褒め言葉が噂の燃料になると分かっているからで、その割り切りが眩しい。
「一段目はこれで炙れた、二段目へ行く」
猫猫がそう言い、俺の袖を軽く引いたが、その動作があまりに自然で胸が変な方向へ温かくなった。
俺はそれを恋だと呼ぶほど器用じゃないし、兄弟みたいな距離のままでも十分だと勝手に思ってしまう。
二段目は粥膳だが、粥は弱い者の食事というより、弱いふりをする時の都合の良い舞台でもある。
「胃に優しい」という建前があれば、誰にでも配れて、誰でも手を伸ばし、誰でも香油へ触れる口実ができる。
触れる人間が増えるほど、痕跡は増え、痕跡が増えるほど猫猫の目は鋭くなる。
俺は粥の米を洗い、煮崩れの速度を計算し、舌に残る甘さが出るところまで火を当てた。
薄味で誤魔化さず、薄味を美味くするのは難しいが、難しいぶんだけ「囮に見えない囮」になる。
薬味皿には塩と酢と刻み葱を添え、香油は二本用意して、卓上に回る設計にした。
「香油は二本にする、Aは安全、Bは例の棚」
俺が言うと、猫猫は小さく頷き、次の言葉を飲み込んだまま目だけで周囲の耳を測った。
「Bを使う人間は多いほどいい、ただし飲み込ませる量は最小にしろ」
猫猫は低い声でそう言い、危険と検証の境界を冷たく引いた。
配膳係が粥を運び始めると、厨房の外側が急に近くなる感覚が俺の背中に張り付いた。
後宮は厨房と廊下の間に壁があるのに、噂と利害は壁をすり抜けるから、距離の感覚が狂う。
俺は笑って会釈をし、ただの手伝いの料理人として振る舞いながら、香油瓶が誰の手に渡るかを目で追った。
香油を回す時、人は必ず手首の角度に癖が出るので、俺はそこだけを職人の目で拾い続けた。
香油を躊躇なく入れる者、匂いを嗅いでから入れる者、瓶口を布で拭う者、そして拭った布を妙に丁寧に畳む者がいる。
丁寧に畳むのは清潔好きにも見えるが、証拠を扱う人間の丁寧さにも似ていて、俺は胃の奥が少し重くなった。
猫猫は粥を食べるふりをしながら、瓶の口元の油膜の光り方と、指先につく匂い移りを観察している。
その観察は執着ではなく仕事で、仕事としてやっているからこそ恐ろしく、恐ろしいのに信じられる。
「猫姉、あの人、瓶を覗き込む回数が多い」
俺が小声で言うと、猫猫は頷き、否定も肯定もせずに次の手順を口の中で組み立てている顔をした。
「見てるだけでも触れた痕は残る、次は布を見る」
猫猫はそう言い、誰にも見えない角度で俺の袖を軽く引き、視線の先を合わせてきた。
俺はその合図で、さっき二回目の熱油の時に回収された布の畳み方を思い出した。
畳み方の癖は人の癖であり、人の癖は鍋の癖より変わりにくいから、猫猫の狙いはそこにある。
厨房の中だけで完結しない線が、粥膳の卓上で濃くなっていくのが分かり、俺は胸の奥が嫌な方向へ冷えた。
後宮の人たちは俺の正体を知らないが、俺の料理を知っていて、その「知っている」が増えるほど俺の首が細くなる。
それでも俺は、今はまだ包丁を置けないし、猫猫が動いている間は横に立っていたいと思ってしまう。
猫猫が粥椀を置き、香油瓶へ視線を刺すように落とした。
その視線が「また触った」を言葉にせずに告げていて、俺は鍋の音で喉の乾きを誤魔化した。
「触った奴は、必ずまた触る」
猫猫が小さく言うと、その声は粥の湯気より薄いのに、俺の胸には重く落ちた。
「じゃあ次は、触った瞬間に逃げられない皿を出す」
俺は火の匂いを吸い込み、笑っているふりをしながら、次の一口が呼ぶものの大きさを考え始めていた。