月見の宴が正式に決まった朝、厨房の空気はいつもより熱かった。
火が強いわけではなく、人の呼吸が増えて、鍋の音が大きくなり、言葉が短くなっていく種類の熱だ。
後宮では宴は祝い事であるはずなのに、祝いの前ほど空気が尖り、尖った空気ほど誰かを切りたがる。
僕は刻み台に立ちながら、魚の鱗より先に人の視線の刺さり方を数えてしまい、慣れたはずの場所で少しだけ喉が渇いた。
「坊主、今日は月だ、皿の顔を作れ」
料理長は乱暴な言い方をするのに、手は丁寧で、こういうところが職人の信用だと思う。
僕は頷きながら、月の顔という言い回しを頭の中で料理の形へ翻訳した。
月は光り、光るものは油膜で表現でき、油膜は香りでもあり、香りは人を油断させる。
昨日までの二段構えで、香油の匂いに薬草の筋が刺さっていることは確かになった。
確かになったのに、誰の指が触れたのかはまだ確かにならない。
後宮は証拠の前に噂が走り、噂が走った後に証拠が追いつくと、証拠は意味を変えられてしまう。
猫猫はそれを嫌っていて、嫌っているからこそ、今日も言葉を減らしているのだろう。
「宴の席次が降りた」
猫猫は僕の背後に立ち、鍋の音に紛れる程度の声で言った。
声量が小さいのに耳へ刺さるのは、余計な情緒が混ざっていないせいだ。
「それで、胃が痛くなる人が増えた?」
僕が冗談めかして返すと、猫猫は笑わずに視線だけを横へ流した。
その視線の先に廊下があり、廊下の先に耳があり、耳の先に噂がある。
「客の目的が料理だけなら楽なんだけどね」
猫猫は淡々と言い、香油棚へ目を向けた。
「厨房そのものを見たい連中がいる、そういう匂いがする」
僕は包丁の刃を布で拭きながら、匂いという言葉の意味を噛み直した。
匂いは鼻で嗅ぐものだけじゃなく、動線や視線や沈黙の重さにも匂いがある。
猫猫が言う匂いはたぶんそっちの匂いで、そっちの匂いのほうが後宮では厄介だ。
「じゃあ、見せるなら見せ方を決めないと」
僕が小声で言うと、猫猫は頷いた。
頷き方が同意ではなく命令の承認みたいで、昔から変わらない。
月見の膳は、見た目が華やかであればいいわけじゃない。
後宮の月は人が見るものではなく、人が見られるための舞台装置で、舞台装置は隙を作らない。
僕は主皿を清蒸魚に決めたが、ただ蒸すだけでは月見にならないので、香りで月を作ることにした。
香りの層を二段にして、満ちていく感じを皿の上で再現すれば、目も鼻も騙せるし、騙された瞬間に指は動く。
「二回の熱油は続ける」
僕は猫猫にだけ聞こえる程度で言い、鍋の火を見つめた。
「一回目で安心させて、二回目で匂いの底を掘る」
「逃げ道を削れ」
猫猫は短く返し、さらに言葉を足した。
「客席で完成する形にしろ、触れる回数を増やす」
客席で完成するということは、配膳や保管の線が濃くなるということだ。
厨房の中だけで完結しないようにすると、外側の影が必ず皿の縁へ触れる。
猫猫が狙っているのはそこだろうし、僕が狙っているのもそこだった。
犯人を殴るなら拳は皿にするしかなく、拳が皿なら相手は防ぎにくい。
仕込みが始まると、厨房は忙しさで笑いが減り、笑いが減るほど視線が尖る。
尖った視線は僕へ向かうものもあるが、向かう視線の多くは嫉妬ではなく計算に見えた。
腕のいい料理人は便利で、便利なものは誰かの所有物にしたがられる。
正体を知られていないのに、僕のことを知っている人間が増えたことが、急に怖くなった。
「坊主、余計な飾りは要らんぞ、上は派手なのが好きだが、派手は事故を呼ぶ」
料理長が言うと、別の料理人が鼻で笑った。
「坊主は派手に見えて、手順は地味だからな」
「派手に見えるのは皿の役目だよ」
僕は肩をすくめ、魚の身を指先で押して張りを確かめた。
「手順が派手だと、怪我をするのは作る側だ」
料理人たちが短く笑い、鍋の音が少しだけ軽くなる。
この仲間の軽さが、僕には救いみたいに感じる。
救いだと思った瞬間に、後宮ではそれが奪われる前触れになることがあるから、本当は思わないほうがいいのに。
魚を蒸し場へ入れ、葱と生姜を刻み、香油の鍋を二つ用意し、柄杓の置き場所をわざと変えた。
いつもの癖を崩すと人は苛つき、苛つくと手が滑り、滑った手が証拠になる。
猫猫の観察は匂いと油膜だが、僕の観察は手の癖と手順の乱れで、どちらも結局は人を見ている。
その時、仕込み場の端に、見慣れない手つきが混ざった。
顔は布で半分隠れていて、目も逸らすように伏せられているのに、包丁の持ち方だけが妙に慣れている。
慣れているのに、慣れていることを隠すように動きが小さく、必要な動きだけを選んでいる。
僕はその手首の角度を見た瞬間、粥膳の卓上香油を回した時の癖を思い出した。
料理長も気づいたのか、鍋の音が一瞬だけ大きくなり、誰かが笑い声を作って空気を誤魔化した。
誤魔化すための笑いは薄くて、薄い笑いほど「見なかったことにする」合図になる。
後宮の厨房は仲がいいからこそ、外から来た影に踏み込まない沈黙の連帯を作る時がある。
踏み込めば皆が巻き込まれ、巻き込まれた後に守れるものが減るのを、彼らは体で知っている。
猫猫はその影を直接見ないふりをして、香油棚へ目を向けた。
見ないふりをしているのではなく、見るべき場所を変えているのだと僕は理解した。
猫猫が怒っている時ほど静かで、静かな時ほど手順が増える。
今日の猫猫は静かだから、僕は勝手に背筋を伸ばした。
「猫姉、あれ」
僕が目だけで影を示すと、猫猫は一拍置いてから小さく頷いた。
頷いたのに何も言わないから、言葉がないぶんだけ恐ろしい。
「今は触らせる」
猫猫はようやく言い、声は鍋の音より小さかった。
「触れた痕は必ず残る、残せばいい」
僕は舌の裏が乾くのを感じながら、清蒸魚の仕上げに入った。
一回目の熱油は普通の温度で香りを立て、周囲の目を「旨そうだ」に傾ける。
料理長が満足そうに息を吐き、料理人たちの手が少しだけ緩み、空気が「成功」を先に祝う。
成功を先に祝うと、失敗は隠せると思ってしまうから、そこが罠になる。
二回目の熱油は、油が揺れる手前の温度に寄せ、香りが爆発する境界を狙った。
油を回した瞬間、葱生姜の香りが跳ね、魚の白い湯気が月明かりみたいに立ち上がる。
その香りの底に、昨日と同じ薬草の筋が一息だけ濃くなり、僕の鼻がそれを確かに掴んだ。
匂いが一息だけ濃くなるのは、隠している側が「今なら隠せる」と思っている瞬間に近い。
「来た」
僕が小さく言うと、猫猫は皿に近づくふりをして、香りだけを吸った。
吸った瞬間に眉が動かないのが猫猫で、動かないのに目だけが一段鋭くなるのが猫猫だった。
「布」
猫猫はそれだけ言い、僕は柄杓の近くの布の畳み方を目で追った。
布がいつの間にか一枚増えていて、その増え方が自然すぎるのが不自然だった。
自然すぎるものは誰かが整えたもので、整える人間は整えた痕跡を必ず残す。
仕込み場の端の影が、皿のほうを見た。
見たというより匂いを確かめたように、頭がほんの少しだけ傾いた。
その動きが粥膳の卓上で瓶口を覗き込んだ動きと似ていて、僕の中の線が太くなる。
線が太くなるほど、次にするべきことは増えるのに、言葉は減らさなければならない。
料理長が布を回収するふりをして手元へ寄せ、回収した布をわざと雑に畳んだ。
雑に畳むのは職人の雑さではなく、誰かの丁寧さを浮かせるための雑さだ。
猫猫はその雑さを見て、視線だけで小さく肯定し、僕はその視線の意味を理解して息を吐いた。
試作会が終わり、皿の出来だけ見れば誰も文句を言えないほどの月が皿の上に浮かんだ。
それなのに僕の胸の奥には、成功したほど危ないという後宮の後味が残って、舌がざらついた。
成功は噂を呼び、噂は耳を呼び、耳は名前を呼ぶ。
名前を呼ばれた瞬間に正体が露れるのは、後宮だけではなく僕の立場でも同じだ。
猫猫が僕の袖を軽く引き、仕込み場の奥へ視線を向けた。
そこにはもう影の姿がなく、布で隠した顔も、慣れた手首も、鍋の音に溶けて消えていた。
消えたのに消えたことを誰も言わず、誰も追わず、追わないことが共同作業みたいに成立している。
その空気が一番怖くて、僕は包丁を握った手に汗が滲むのを感じた。
「問えない相手が混ざったな」
僕が喉の奥で言うと、猫猫は視線を外さずに返した。
「問うのは最後でいい、先に癖を揃える」
猫猫の言い方は冷たいのに、冷たいからこそ正しい。
「触った奴は、必ずまた触る」
猫猫が小さく言い、香油棚の一点へ目を刺した。
その一点が「次も同じ場所を狙う」と告げているようで、僕は鍋の音に紛れる程度の声で頷いた。
「次は、触った瞬間に逃げられない形にする」
僕はそう言い、笑っているふりをしたまま、月の皿の余韻が呼ぶ影の大きさを腹の底で測り続けていた。