月見の宴が正式に決まった日、厨房の空気はいつもより乾いていて、鍋の音だけがやけに響いていた。
忙しさは火力ではなく人の呼吸で増えていき、呼吸が増えるほど言葉が短くなり、短い言葉ほど棘が混ざりやすい。
僕はその棘が誰に向くのかを無意識に測ってしまい、刻み台の前で背筋だけが先に伸びていった。
料理長は朝から声が大きく、声が大きい分だけ場を回しているつもりなのが見て取れた。
ただ、後宮の宴が絡むと、声の大きさは頼もしさではなく焦りにも見えるから厄介だ。
僕の正体は知られていないはずなのに、僕の手際だけが先に知られてしまう場面が増えていて、その事実が喉の奥を冷やす。
「よっしっ!マオ!今日の目玉の料理はお前が作れ」
「メインの料理ですか!それはとても栄光ですが」
「難しいのを作れるから、ここにいるんだろ」
「まぁ、なんとか作って見せます!それに、こういうのも楽しみですからね」
笑いが起きると鍋の音が軽くなるが、その軽さが長続きしないのが後宮の台所らしい。
手を動かす人間が増えるほど、情報も増え、情報が増えるほど噂が育つから、軽い空気はすぐに重くなる。
僕は魚の身を確かめながら、仕上げの香りをどう立てるかを頭の中で組み立て、二段に分けた山の形を想像していた。
背中側の温度が一段下がったように感じて、僕は包丁を置く動作を少しだけ丁寧にした。
猫猫が来る時は足音が派手なわけではないのに、近づくだけで空気が締まるから不思議だ。
締まった空気の中で余計なことを言うと、後で必ず困るのを僕はもう学んでいる。
「まぁ決まったのならば良いけど、月の席か」
「色々な人に気を遣わないといけないから、考えないと」
「料理人ってのも色々と気を遣って、大変そうだね」
「その分、色々な見せ方をする為に頑張らないとね」
猫猫の言い方は淡々としているのに、淡々としているからこそ耳がある場所での注意喚起に聞こえる。
月の宴は料理を食べに来るだけの席ではなく、料理を口実に人の立場が並べ替えられる席だ。
並べ替えられるのは席次だけではなく、噂の矛先も同じで、矛先はいつだって目立つものを選ぶ。
僕は目立ちたくないわけではないが、目立つことで守れないものが増えるのも分かっている。
だからこそ、僕は「目立つ」を味の派手さではなく、手順の綺麗さに寄せていく必要があった。
綺麗な手順は誰かに真似されやすいが、真似されるほど僕の手が増えたように見えて、犯人の手を混ぜやすくなる。
猫猫はそういう嫌な算段を平然と飲み込んでしまえる人で、僕はそこが頼もしくもあり怖くもある。
「それに1度だけじゃなくて2度美味しい料理もぜひ作ってみたいから」
「まぁあんたらしいけど、具体的にはどんな料理にするつもり?」
「料理としては、こんな感じにするつもり」
僕は魚を蒸し場へ入れ、葱と生姜を刻み、香りの山を二度作る段取りを手に馴染ませていった。
一回目の香りで安心させ、二回目の香りで底を掘り返すように匂いを立たせれば、隠したい側の指は勝手に動く。
指が動けば痕が残り、痕が残れば猫猫が拾えるので、拾えれば次へ進める。
理屈にすると冷たいが、後宮では冷たくない理屈は役に立たない。
仕込み場の端で、ふと空気がずれた。
ずれは声ではなく手の動きから生まれ、慣れているはずの台所の流れに、異物が混ざったように見えた。
「あれ、見慣れない手がいる」
顔は半分隠れていて、視線も伏せがちなのに、包丁の持ち方だけが妙に静かで、迷いが少ない。
迷いが少ないのに、目立たないように動きが小さく、必要な動作だけを選んでいるのが逆に不気味だった。
周りの料理人たちの空気もわずかに固くなり、固くなったのに誰も指摘しないことで、沈黙の連帯が立ち上がる。
台所の仲が良いからこそ、踏み込めない線が生まれる瞬間があるのを僕は初めてはっきり見た。
僕は仕上げへ意識を戻し、一回目の熱油で香りを整えながら、鼻の奥で薬草の筋を探した。
前よりも微かで、微かなのに消えていないのが嫌で、その嫌さが「まだ終わっていない」と告げてくる。
二回目の熱油を回す直前に、僕は柄杓の近くを見て、布の置き方を確認した。
布は道具の一部に見えるが、道具より人の癖を写し取るものだと、猫猫に教えられてきた。
二回目の香りが立った瞬間、匂いの底に細い筋が浮き上がって、僕の鼻先がそれを確かに掴んだ。
「……この筋」
「柄杓のとこの布ね」
「布が増えてる?」
「増え方が綺麗すぎるなら、人の手だから」
猫猫の声は小さいのに断定の刃があり、その刃があるから余計な説明は要らない。
僕は布の畳み方を目で追い、畳み方の癖が誰のものに似ているかを、台所の記憶と照合した。
こういう照合は好きではないが、好き嫌いで避けられる話ではなく、避けた瞬間に痕が薄まる。
仕込み場の端の影が、皿のほうを一度だけ見た気がして、僕の背中が冷たくなった。
「さっきの影は確実に皿を見た」
「匂いを嗅いだだけでも、癖は出ているのは丸わかりね」
猫猫は言いながらも声を張らず、追い立てるより先に「残す」ことを優先しているのが分かった。
追い立てれば逃げるし、逃げれば次の手が遠くなるので、遠くなるほど後宮は不利になる。
僕はその不利を受け入れたくなくて、受け入れたくないからこそ、皿の上で勝つしかないと腹を決めた。
試作会は成功したはずなのに、成功した後ほど怖いという感覚が舌に残り、月の香りが妙に重かった。
成功は噂を連れてきて、噂は耳を増やし、耳は名前を探し始めるので、喜びの後ろに必ず刃が立つ。
僕は包丁の柄を握り直し、手汗が滑らない位置へ指をずらして、自分の呼吸だけを落ち着かせた。
「こういう空気だと聞けない相手が多すぎるね」
「下手に聞けば、逃げられる可能性はあるからね、だから」
「じゃあ次は、触った瞬間に逃げられない形にするよ」
猫猫はそれ以上は言わず、言わないまま香油棚の一点へ視線を刺した。
刺す視線は「次も同じところを狙う」という予告に見えて、僕は笑うふりをする余裕すら少しだけ失った。
それでも僕は、鍋の前に立つ限りは手を止めないし、止めないことでしか守れないものがあると知っている。
月見の宴はまだ始まっていないのに、仕込みの影はもう動いていて、僕の皿はその影を捕まえるための罠になっていく。