月見の宴の当日、厨房は朝から湯気で白く、白いのに空気が重かった。
重いのは蒸気のせいではなく、人の目が増えるせいで、目が増えると刃が増えるのが後宮の癖だからだ。
僕は笑って挨拶を返しながら、誰の視線が皿ではなく僕の手元を見ているかを数え、数える自分が嫌になった。
嫌になっても手順は止まらないし、止めた瞬間に負けるのも分かっているので、結局は包丁を握り直すしかない。
「よし、今日は失敗するなよ」
料理長の声は大きいが、言い方はいつもより短く、短いぶんだけ本気の緊張が混ざっている。
「しませんよ、失敗するなら最初からやってないです」
僕は軽く返してみせたが、軽く返せたのは、厨房の仲間が背中を支えてくれているからだと思う。
「口は軽くても手は軽くするな」
どこかの料理人が言って笑いを作り、鍋の音が一拍だけ和らいだ。
和らいだ音の隙間に、廊下の気配が刺さるように入ってくるのが、宴の日の怖さだった。
猫猫はいつものように壁際へ立っていた。
立っているだけで邪魔にならない位置を選び、邪魔にならないのに目だけは確実に邪魔なところへ刺していく。
僕の目が合うと、猫猫は小さく顎を引き、言葉ではなく「やれ」という合図をくれた。
「月の席は、誰が一番うるさいの」
僕が小声で聞くと、猫猫は視線を動かさずに返した。
「うるさいのは口じゃない、目だよ」
猫猫の声は乾いていて、乾いているからこそその場の湿気に負けなかった。
「食べに来る目じゃない、値踏みしに来る目が混ざってる」
「じゃあ、値踏みされても崩れない皿にする」
僕が言うと、猫猫は一拍遅れて小さく頷いた。
頷き方が褒めではなく許可に近いので、僕は余計な嬉しさを顔に出さずに済んだ。
今日の皿は、二段で香りを立てる清蒸魚が主役になる。
一回目の香りで月の輪郭を整え、二回目で月を満ちさせ、満ちた瞬間に底の匂いを浮かせる。
香油の瓶は普段の棚のものと例の棚のものを分け、使う工程と動線を意図的に増やしてある。
増やすほど危ないが、危ないほど手が動き、動いた手ほど痕を残すのも現実だった。
「坊主、蒸し場は任せた」
料理長が言い、僕は「はい」と短く返してから、魚の身を確かめる動作へ入った。
張りがいいのに匂いが薄い魚は扱いが難しく、扱いが難しいほど宴向きだと思うのが僕の悪癖だ。
難しいものを形にできれば誰も文句は言えないし、文句が言えない皿ほど人は別のところに文句を探し始める。
「無理をするなよ」
料理長が、口ではなく目だけで言ってきた。
「無理はしないです、無茶はしますけど」
僕が返すと、料理長は鼻で笑い、笑ったまま次の鍋へ向かった。
鼻で笑う余裕があるうちは、厨房はまだ生きている。
蒸し場へ魚を入れ、葱と生姜を刻み、香油の鍋を温めながら、僕は柄杓と布の位置を何度も確かめた。
宴の日は人が増え、増えた人が「勝手に親切」をするので、布や柄杓が勝手に整えられてしまう。
整えられた瞬間に癖が残ると猫猫は言うが、癖が残るまで待つのは、耐える作業でもある。
「猫姉、今日はさ」
僕が言いかけたところで、猫猫が視線だけで止めた。
「呼び方は勝手にしろ、でも声は落とせ」
猫猫の言葉は優しくないのに、優しくない形で守ってくるから困る。
僕は頷き、余計な言葉を飲み込んで、火の前の顔に戻った。
宴の膳は厨房から運ばれ、客席の手で完成する。
粥膳もその一つで、「胃に優しい」という建前で卓へ回し、香油が回る回数を増やしてある。
僕は粥の鍋の火を見ながら、香油の瓶が卓でどんな風に持たれるかを想像し、手首の角度を思い浮かべた。
手首の角度は、人が隠したい癖ほど出るし、癖は隠そうとするほど濃くなる。
「来たら教えて」
僕が小声で言うと、猫猫は短く返した。
「来たら言う、だから今は余計に動くな」
猫猫はそう言って、布の端をちらりと見た。
布を見たということは、もうすでに何かが動いているということでもある。
蒸し上がりの時間が来て、僕は甑の蓋を開けた。
白い蒸気が立ち上がり、魚の甘い香りが広がり、葱生姜の青さがその上に乗る。
この瞬間はいつだって綺麗で、綺麗だからこそ汚れも目立つ。
一回目の熱油を回しかけると、香りがふわりと立ち、月の輪郭が皿の上にできた。
料理長が短く息を吐き、周りの料理人がそれを見て手を緩める。
手が緩んだ隙に、廊下から入ってくる目が増え、増えた目が「誰が作ったか」を探し始めるのが分かった。
「名前を聞かれても言うなよ」
どこかの料理人が小声で言い、僕は頷くだけで返事を済ませた。
返事をした瞬間に声が残り、声が残ると噂に残るので、頷きのほうが安全だ。
二回目の熱油は、油が揺れる手前の温度へ寄せた。
寄せるだけで香りは跳ね、跳ねた香りは月を満ちさせる。
油を回した瞬間、葱生姜の香りが弾け、蒸気が一段白くなって立ち上がった。
その香りの底に、乾いた薬草の筋が一息だけ濃くなり、僕の鼻先がそれを確かに掴んだ。
「……この筋」
僕が呟くと、猫猫は皿に近づくふりをして香りだけを吸った。
眉ひとつ動かさないのに、目だけが一段鋭くなるのが猫猫だ。
「柄杓のとこの布ね」
猫猫の声は小さいのに、指示ははっきりしていて、僕は柄杓の横へ視線を滑らせた。
「布が増えてる?」
僕が言うと、猫猫は短く返した。
「増え方が綺麗すぎるなら、人の手だから」
その言葉は説明ではなく釘で、釘を打たれた場所が今この場の弱点だと分かった。
皿が運ばれ始めると、仕込み場の端にいた影が、一歩だけ動いた。
動きは小さく、誰も気づかないふりをしやすい動きなのに、僕にははっきり見えた。
影は布を取るでもなく、柄杓に触れるでもなく、ただ布の置き方を整えるように指先を動かした。
整える動作が自然すぎて、自然すぎるからこそ手癖が見えてしまう。
「さっきの影は確実に皿を見た」
僕が小声で言うと、猫猫は視線を外さずに返した。
「匂いを嗅いだだけでも、癖は出ているのは丸わかりね」
猫猫の言葉は冷たいが、冷たいからこそ今の僕の足を止めてくれる。
「追う?」
僕が言いかけたところで、猫猫が先に切った。
「追うな」
短い言葉の中に、逃げる可能性と、逃げた後の厄介さが全部入っている気がした。
僕は頷き、皿の運び出しを手伝うふりをしながら、影の動きを視界の端で追い続けた。
宴の場へ皿が並び始めると、厨房の外側の空気が一気に近づく。
笑い声は柔らかいのに、柔らかい声ほど人を試す響きがあり、僕の背中が薄く汗ばむ。
粥膳が「胃に優しい」と言われて卓へ回り、香油が回され、手首が傾き、瓶口が拭われ、布が畳まれる。
その一連の動きが、誰かの癖を浮かせる舞台だと分かっていても、僕はその場にいないのがもどかしい。
「見える?」
僕が小声で聞くと、猫猫はほんの僅かに顎を引いた。
「見える」
猫猫の声は短いのに、短いぶんだけ確信の重さがある。
「混ざってるのは厨房じゃない、外の手が入ってる」
外の手という言い方が、皿より厄介なものを連れてくる気がして、僕は喉の奥が冷たくなった。
厨房の仲間たちが踏み込まなかった沈黙の理由が、少しだけ理解できた気がする。
踏み込めば、踏み込んだ人間から消されるし、消された穴は誰も埋めてくれない。
「こういう空気だと聞けない相手が多すぎるね」
僕が言うと、猫猫は少しだけ口元を歪めた。
それが笑いではなく、面倒の形を測る癖だと僕は知っている。
「下手に聞けば、逃げられる可能性はあるからね、だから」
猫猫は言いかけて、言葉を途中で止めた。
止めたのは説明が要らないからで、要らないほど状況が固まっているからだ。
「じゃあ次は、触った瞬間に逃げられない形にするよ」
僕が言うと、猫猫はそれ以上言わず、香油棚の一点へ視線を刺した。
刺す視線は「次もここを狙う」という予告に見えて、僕の腹の底が静かに冷えた。
月の宴は始まったばかりで、皿は美味しく出来ているのに、仕込みの影はまだ消えていない。
僕は包丁を握った手の汗を拭い、次の皿を罠にする段取りを、火の匂いの中で組み直していた。