月見の宴が終わった夜、厨房は片づけの音だけが残り、昼の熱が嘘みたいに引いていた。
皿は綺麗に戻され、鍋は磨かれ、床の油膜も拭き取られて、表面だけ見れば何事もなかったみたいだ。
それでも僕の鼻の奥には、二度目の香りの底に立ち上がった薬草の筋が残り続けていて、眠れない理由になっていた。
後宮では眠れない夜は珍しくないが、眠れない理由がはっきりしている夜ほど厄介で、厄介な夜ほど次の朝が早い。
「昨日の布、見せて」
猫猫は朝になっても平らな顔を崩さず、僕の袖を軽く引いて、台所の隅へ視線を誘導した。
誘導の仕方が自然すぎて、僕は昔からこうやって連れ回されていた気がして、思い出すのが少しだけ悔しかった。
「料理長が回収したやつなら、そこにあるよ」
僕が小声で言うと、猫猫は頷き、布の畳み目だけを目で追っていく。
猫猫は触らないが、触らないことで一番厄介なところを残すので、僕はその判断を黙って受け入れる。
「増え方が綺麗すぎた」
猫猫が呟くと、それは感想ではなく結論に聞こえた。
「綺麗に増えるのは、手順を知ってる手だよ」
「厨房の手じゃないってこと?」
僕が聞くと、猫猫は視線だけで肯定した。
肯定されると安心するはずなのに、安心の代わりに背中が冷えるのが後宮らしい。
「台所の人間は、増やし方が雑になる」
猫猫は淡々と続け、言葉の端を切り落とすように短く区切った。
「丁寧に整えるのは、整えるのが仕事の人間だよ」
整えるのが仕事の人間と言われて、僕の頭に浮かんだのは皿の管理や倉の鍵の顔だった。
料理人は料理を整えるが、後宮には料理以外を整える人間が山ほどいる。
整える人間は目立たないが、目立たない人間ほど触れるものが多く、触れるものが多いほど混ぜ物は簡単になる。
「次はどうする?」
僕が聞くと、猫猫は少しだけ口元を歪めた。
それは笑いではなく、面倒の形を頭の中で折り畳んでいる顔だった。
「逃げ道を先に塞ぐ」
猫猫は言い切り、廊下の先を見た。
「皿じゃない。鍵だよ」
鍵と言われた瞬間、僕は胸の奥が嫌に軽くなるのを感じた。
皿の問題なら皿で殴れるが、鍵の問題は皿だけで殴れない。
殴れない相手ほど後宮では強く、強い相手ほど正面からは触れない。
猫猫は「胃に優しい」という建前をもう一度使い、粥膳を名目に倉の出入りを増やした。
僕は厨房で粥の鍋を見ながら、配膳の流れが昨日より少しだけ変えられているのを感じ取っていた。
変えられた流れは自然に見えるが、自然に見えるように変えるのは慣れた人間の仕事で、そこが罠になる。
「今日も粥?」
料理長が眉を上げると、僕は笑って肩をすくめた。
「昨日、胃をやられた人がいるって話にしたほうが通るから」
「後宮の胃は弱いのが正しい」
料理長は鼻で笑い、笑いながらも目だけは真面目だった。
「坊主、背中は任せろ。変なのが入ったら蹴り出す」
その言葉が嬉しかったが、嬉しいと言った瞬間に火種になる気がして、僕は「お願いします」とだけ返した。
厨房の仲間は僕の正体を知らないが、僕が守りたいものは知っている。
守りたいものを知っている人間がいる場所を、僕は失いたくないと思ってしまう。
粥膳が運ばれ、香油が回り、瓶口が拭われ、布が畳まれる。
僕は直接卓へ行けないので、運びの人間の手首と、戻ってくる布の癖だけを目で拾い続けた。
猫猫はその間ずっと廊下に溶けるように立ち、立っているだけで空気を変えず、変えないまま目だけを動かしていた。
「来る」
猫猫が小さく言ったのは、昼過ぎのことだった。
来るのは匂いではなく人で、来るのは皿ではなく鍵で、僕は鍋の音で喉の乾きを誤魔化した。
倉の出入り口のほうで、例の影が一瞬だけ見えた。
顔は布で隠れていて、歩幅は小さく、誰かの後ろに隠れるのが上手い。
ただ、布を畳む指の動きだけが妙に綺麗で、綺麗な動きほど癖が残るのを僕はもう知っている。
「さっきの影、倉へ入った」
僕が小声で言うと、猫猫は視線を外さずに返した。
「入れるのが問題。入れてるのが問題」
「倉の鍵は誰が?」
僕が聞くと、猫猫は少しだけ顎を引いた。
顎を引く動作が「名前は出すな」という合図に見えて、僕はそれ以上は聞かない。
猫猫は代わりに、倉から出た布の端を指先でつまみ、風に当てて匂いを立てた。
その仕草は一見ただの確認で、ただの確認に見えるようにやっているのが猫猫らしい。
風に乗った匂いは薄いのに、薄い奥にあの薬草の筋が残り、僕は息を止めた。
「擦り付けてる」
猫猫が呟き、言い方は感想ではなく断定だった。
「混ぜない。混ぜると痕が散る。散るのは嫌なんだよ」
「痕を残したいってこと?」
僕が言うと、猫猫は一拍遅れて頷いた。
「残す痕を選んでる。だから鍵の近くに寄る」
鍵の近くに寄る理由は一つしかない。
触れる順番を支配できる場所に立ちたいからで、支配できれば判断を支配できる。
判断を支配できるなら、宴の席次も贈り物も噂の矛先も、静かに曲げられる。
猫猫はその場で追い詰めず、代わりに「次の膳」を提案した。
次の膳は宴ではなく、後片付けの合間に出す軽い一皿で、軽い一皿だからこそ油断が乗る。
僕は言われたとおり、香りの立ち方をわざと穏やかにし、穏やかに見えるように仕上げの動作を遅くした。
「遅いね」
料理人の一人が言ったので、僕は笑って返した。
「急ぐと手が滑るから、今日は滑らせたくないんだ」
言葉にした瞬間、猫猫が少しだけ目を細めた。
僕が余計なことを言ったのだと気づいたが、もう遅いので、せめて動作で取り返すしかない。
軽い一皿が運ばれ、戻ってきた布の畳み目がまた綺麗になっていた。
綺麗すぎる畳み目は、整えるのが仕事の手の癖で、癖は必ず同じところへ戻る。
猫猫はその畳み目を見て、今度は初めて僕のほうを向いた。
「これで十分」
猫猫の声は小さいのに、言葉の重さが違った。
「鍵の近くにいる手。布を綺麗に畳む手。匂いを残す手」
「捕まえる?」
僕が聞くと、猫猫は首を振った。
「捕まえるのは、私じゃない」
猫猫が視線を投げた先に、高順がいた。
高順は普段よりさらに表情が固く、固いまま僕のほうへ一歩近づいた。
一歩近づくだけで空気が変わるのは、後宮で「上の人間」が動いた合図になる。
「話は聞いた」
高順の声は低く、低いぶんだけ周囲の耳を遠ざける力があった。
「これ以上は台所でやるな。火はここで止める」
「止められるの?」
僕が思わず聞くと、高順は少しだけ目を細めた。
「止める。止めなければ、台所が燃える」
その言葉は比喩じゃなく、後宮では比喩じゃない言葉ほど怖い。
猫猫は何も言わず、ただ高順の背後を一度だけ見て、それで十分だと言うように息を吐いた。
その日の夕方、倉の鍵を扱う者が別室へ呼ばれ、戻ってこなかった。
捕縛というより配置換えという形で、後宮は問題を「なかったこと」にする。
なかったことにされた問題の跡だけが残り、その跡を嗅げるのが猫猫で、嗅げるからこそ猫猫は疲れて見える。
「終わった?」
僕が聞くと、猫猫は頷いたが、頷き方が晴れではなく曇りだった。
「終わった。台所は燃えない。今日はね」
今日はね、と言ったところが猫猫らしくて、僕は笑いかけてやめた。
笑った瞬間に軽くなるのは自分の心で、軽くなった心は後宮ではすぐに踏まれる。
夜になり、僕は呼ばれた。
呼ばれた先にいたのは羅漢で、羅漢は相変わらず面白がるように目を細めていた。
面白がっている目ほど危険なのに、危険だと分かっていても逃げられないのが、羅漢の厄介なところだ。
「よく片づけた」
羅漢はさらりと言い、褒め言葉の形で刃を置いた。
「だが、片づけ方が派手すぎた」
「派手にしたつもりはないです」
僕が言うと、羅漢は肩をすくめた。
「お前が思う派手と、後宮が思う派手は違う」
高順が一歩前に出て、声を低くした。
「お前がここにいること自体が火種になる。知られていないつもりでも、もう噂が走っている」
僕は喉の奥が冷たくなるのを感じ、猫猫の顔を思い出してから、わざと何も言わなかった。
言えば縋る言葉になるし、縋る言葉は後宮では弱さとして拾われる。
弱さを拾われるなら、料理で勝った意味がなくなる。
「身分を隠せと言ったはずだ」
高順の声は責めているようで、責めているのは状況のほうに見えた。
「だが、もう隠せない。今日で露見した」
「僕が、特別だって分かった?」
僕が聞くと、羅漢は笑った。
「分かった者がいる。分かった者がいる限り、奪う者が出る」
奪う者が出る限り、守る者も出る。
守る者と奪う者が揃うと、後宮は必ず燃える。
燃えた火は台所から始まり、台所が燃えると、僕が守りたいものが消える。
「出ろ」
高順は短く言った。
「今夜のうちに」
短い言葉の中に、選択肢がないのが分かった。
僕は頷き、返事の代わりに息を吐いた。
息を吐くと少しだけ胃が落ち着き、落ち着いた胃が現実を受け入れてしまうのが悔しい。
厨房へ戻ると、料理長が鍋を磨きながらこちらを見た。
料理長は何も聞かず、ただ布を一枚投げてよこした。
その布はいつもの雑な畳み方で、雑さが優しさに見えるのが、僕には辛かった。
「坊主、名前は聞かん」
料理長が言い、声はいつもより小さかった。
「だが、戻れるなら戻れ。台所は待つ」
「待つって言うと、待たせるみたいで嫌だな」
僕が笑いかけると、料理長は鼻で笑った。
「嫌でもいい。嫌でも生きろ」
荷をまとめて廊下へ出ると、猫猫が壁際にいた。
いつも通りの位置で、いつも通り邪魔にならないのに、いつも通り目だけは邪魔なくらい真っ直ぐだった。
僕は言葉を探したが、探した瞬間にみっともなくなる気がして、結局は素直に言った。
「行くことになった」
僕が言うと、猫猫は頷き、驚きも悲しみも見せなかった。
見せないのに、手だけが動いて、紙包みを僕の胸に押しつけてきた。
「胃を壊すな」
猫猫の声は小さく、命令みたいに聞こえた。
「壊したら面倒だから」
「相変わらずだなあ」
僕が言うと、猫猫は目を細めた。
それが笑いに見えるかどうかは分からないが、僕には少しだけ救いに見えた。
「猫姉、また来る?」
僕が聞くと、猫猫は少しだけ首を傾けた。
「来るかどうかは知らない。でも、あんたが作る皿は忘れない」
忘れないと言われるのは嬉しいのに、嬉しさが胸に刺さって痛い。
刺さった痛みが、後宮の外でも消えない気がして、僕は紙包みを握り直した。
握り直した指先に薬草の匂いが少しだけ移り、移った匂いが猫猫の仕事の匂いに似ていて、僕は黙って息を吸った。
「じゃあ、僕も忘れない」
僕が言うと、猫猫は返事をせず、ただ視線を逸らした。
逸らした先に耳があるのだろうし、耳があるなら言葉はこれ以上いらない。
僕は振り返らずに歩き出した。
振り返ったら戻りたくなるし、戻りたくなったら台所が燃える。
燃える火を止めるために出ていくのだと、自分に言い聞かせながら、夜の空気の薄さに喉を潤ませた。
月は高く、月の光は綺麗で、綺麗なものほど後味が残るのだと、僕はようやく理解し始めていた。