夕暮れの校舎裏は昼間の喧騒が嘘みたいに薄まり、風が窓枠を撫でる音だけが妙に耳へ残っていた。
俺は教師の机で書類を閉じたまま、闇の書と転生者とディエンドの三枚看板を頭の中で並べ、どれが先に牙を剥くかを無表情で採点していた。
イータが渡してきた外付けの測定器は、便利なくせに性格が悪いみたいに反応の癖を誇示し、校内から少し外れた地点で異常な波形を示している。
こういう時に限って、あいつは眠そうな声で「ついでに実験しておけ」と言い、俺の常識を紙くずみたいに丸めて捨てていくから腹が立つ。
「さて、これから面倒な事が起きる前にある程度は情報を集めていきたい所だけど、イータの奴。ついでに実験しておけって普通、言うのか」
独り言を投げるように呟きながら、俺は校舎の死角を選んで歩き、部活帰りの生徒と視線が交わらない動線だけをなぞって外へ出た。
教師という立場は便利だが、便利さは目立つことと同義で、目立てば余計なものが寄ってくるのは昨日の海東で十分に学んだ。
だから俺は人のいない場所を選び、誰も聞いていないことを確信してから、手首の装置に軽く触れて反応の中心へ向けて針を振らせた。
「にしても、ここの反応が異常と言うけど、一体」
言葉の続きを探す前に、空気の温度が一段だけ落ち、紙が擦れるような耳障りな気配が足元から這い上がってきた。
闇の書に似た感触はあるが、闇の書そのものの“腹の奥”みたいな重さがなく、むしろ誰かが似せて作った模型の匂いがする。
イータの測定器が淡く点滅し、闇の書由来ではないのに闇の書を餌にした痕跡があると、面倒な結論だけを突きつけてくる。
俺は一歩だけ呼吸を浅くし、足音を消して反応の中心へ近づきながら、背後に逃げ道と遮蔽物がある位置へ身体を滑らせた。
こういう違和感は、見つけた側が見つけられている可能性が高いし、俺の相手は災厄か泥棒か転生者のどれかで、どれでも面倒なことに変わりはない。
風が止んだ瞬間、反応の中心から微かな足捌きの音がしたが、それは歩く音ではなく、構えを変える時の重心移動の音だった。
「・・・誰だお前は、隠れるくらいなら最初から出てこい」
俺がそう言い切ると、影が一度だけ揺れ、夕暮れの色に溶けていた輪郭がゆっくりと前へ出てきた。
距離は近すぎず遠すぎず、接近戦を前提にした人間が自然に選ぶ間合いで、相手が戦い慣れていることが最初から分かる。
そして相手の視線は挑発より先に観察で、俺の呼吸と肩の上下と足の向きを、まるで採点するみたいに追っていた。
「・・・蒼玉 林檎、聞くがお前が最近噂のディケイドか、ここで答えてみろ」
名乗りは短いのに、声には変な熱があって、勝ちたいというより「負け方を変えたい」執着の匂いがした。
蒼玉林檎という名は、どこか宝石みたいに澄んでいるくせに、口にすると果実みたいに甘くて、甘いからこそ腐りやすい響きを持っている。
俺は相手の言葉がどこから漏れた噂を拾ってきたものかを計りつつ、わざと余裕を見せるように肩をすくめた。
「ディケイドなのは間違っていないが、そういうお前は転生者のようだが、どこでその噂を仕入れた」
転生者という単語を軽く投げると、蒼玉の瞳がわずかに揺れ、揺れた分だけ俺の確信が深く沈んでいく。
隠す気があるなら揺れを消す努力をするが、こいつは隠すより先に確かめたい顔をしていて、戦闘で答え合わせをするタイプだと見て取れた。
それに、こいつは俺の言葉を聞きながらも足の裏で地面を測っていて、既に“戦う前の準備”を終えかけている。
「あぁ、それにしても、この感覚、まさか本当に本物だとはな、噂だけじゃ分からないもんだ」
蒼玉がそう呟いた瞬間、周囲の空気が薄く裂けるように震え、彼女の指先に透明な風の刃がまとわりつく気配が立ち上がった。
魔力の質は闇の書と違うのに、技の立ち上がり方がやけに速く、観察と再現で戦う人間の癖がそのまま現れている。
つまりこいつは、俺を見てから俺に似せてくる可能性が高いし、長引かせれば長引かせるほど面倒になる。
「お前、模倣するタイプの力か、その手の厄介さは嫌というほど知ってる」
言いながら俺は、蒼玉の重心が俺と同じ角度へ寄ってきていることに気づき、嫌な納得が背中を撫でた。
借り物の力で戦う俺と、見たものを盗んで自分のものにする蒼玉は、性質が違うのに似ている部分がある。
似ているからこそ話が早いし、似ているからこそ絶対に長々と相手をしてはいけない。
「気づきましたか、なら話は簡単ですし、無駄な遠回りもしなくて済みますね」
蒼玉の声は嬉しさを隠す形をしていて、勝ち誇りではなく手応えを噛みしめる温度が混ざっていた。
その温度のまま彼女は指を握り、風の刃の輪郭を一瞬だけ濃くして、武器を生成できるという事実を暗に見せつけてくる。
模倣する魔法《エアファーゼン》の立ち上がりだと直感したが、理屈は後でいいし、今は“何を見せたがっているか”が重要だ。
「俺も似たような感じだからなんとなくだがな。何よりも、その戦い方、俺にそっくりだな」
俺がそう言うと、蒼玉は小さく息を吸い、吸った分だけ前へ出る気配を強くした。
戦い方がそっくりというのは褒め言葉ではなく警告で、真似れば勝てると思うなら甘いと突きつけたつもりだった。
だが蒼玉の瞳は怯まず、むしろ「真似ても勝てない理由」を掴みに来た顔をしている。
「なるほど、ならばお前と戦い、その強さを学ばせて貰う、軽いままじゃ終われないんだ」
言葉の端に過去の敗北が刺さっていて、勝つことより「同じ負け方をしない」ことを望む執念が、風の刃より鋭く空気を切った。
俺はその執念を面倒だと思いながらも、利用価値があると冷静に判断してしまう自分の嫌な性格を、心の中で一度だけ笑った。
鍛えた力を振るう方向性の教導という話なら、殴って理解させた方が早いし、理解させたあとに叩き落とすのも俺の仕事だ。
「・・・まぁ良いだろう、ならばさっさとかかってこい、ただしここで騒ぐなら容赦なく潰す」
俺は周囲に人の気配がないことを最後に確認し、逃げ道を背に置かず、あえて背後に壁が来る位置へ立った。
逃げる気がないのではなく、逃げ道を作ると相手は追って学ぶし、学ばせる時間を与えるほど俺が損をするからだ。
蒼玉の踏み込みが一段深くなり、風の刃が彼女の腕に沿って伸び、次の瞬間にはこちらへ届く距離まで縮まっている。
夕暮れの静けさが破れる直前、俺はディケイドのカードケースに触れながら、あえて変身を急がずに素手の構えを作った。
鍛えた身体と体術で戦うなら、答えは一つしかないし、こいつが欲しいのは派手な必殺より、地面を掴む重さの作り方だ。