悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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悪夢の象徴

銀髪の女が叫びを吐き出した瞬間、夢の景色は優しい家庭の形を保ったまま、内側からゆっくり腐っていくみたいに軋み始めた。

温かな灯りは赤く濁り、床板の木目は脈を打つ血管のように脈動し、壁に掛かった見知らぬ家族写真の笑顔まで、今にも泣き出しそうな歪み方をしている。

この空間は、はやてが欲しかった幸福を模した夢であると同時に、幸福を壊された者の絶望が丁寧に塗り重ねられた檻でもある。

だからこそ俺は、ここで言葉を間違えれば、この女をさらに壊し、はやてまで深い眠りの底へ沈めると理解していた。

 

俺は一度だけ息を整え、銀髪の女へ言葉を返そうとした。

理不尽を否定することも、痛みを軽く扱うことも出来ないが、それでも「終わらせ方」は選べると、そう言うつもりだった。

だが、その次の瞬間、俺の声を横から切り裂くように、まるで別の刃が差し込まれた。

 

「どのような言葉を言ったとしても無駄な事だ。そいつには既に拭えない程の悪夢を見てきたのだからな。」

 

その声音は低く、乾いていて、何より“よく知っている口ぶり”をしていた。

俺は反射的に視線を切り替え、夢の奥から滲み出るように現れた気配へ、無意識に肩を沈めて構えを作る。

そこに立っていたのは、白髪を無造作に流し、黒いコートを纏った男だった。

人の姿をしているのに、影だけがわずかに遅れてついてくる。

立ち姿に破綻はないのに、骨の位置と呼吸の間隔だけが人間のものから微妙にずれていて、見ているだけで神経がざらつく。

 

男は俺を見て笑ったが、その笑みには感情より観察の色が強かった。

「門矢士という訳でもないな、お前をそう呼ぶには少しだけ中身が違って見える。」

俺はその物言いに鼻で笑い、距離を測るために半歩だけ横へずれた。

「そうだな、俺に関してはそこにいる女によって生まれたと言った方が正しいな、少なくとも根はここにある。」

 

銀髪の女が僅かに目を伏せ、肯定とも諦めとも取れる声で補足する。

「……あまりにも強すぎる魔力故に、自我を会得した。それが彼です、私の中から零れ落ちた歪みでもあります。」

なるほど、と思う。

闇の書に積み重なった魔力と負の感情が、夢の底で人格として凝固し、ついに形を得たということか。

しかも、そこへ俺が送り込んだ魔力が燃料になったのなら、話は最悪に分かりやすい。

 

男は肩を竦め、冗談みたいに軽く言う。

「まぁ、そういう事だ。まぁ、お前がこの闇の書にわざわざ力を送り込んだおかげで誕生したのが、俺という訳か。」

俺は内心で舌打ちしながらも、表情だけは崩さずに返した。

「……なるほどな、それで邪魔をする為に来たのか、随分と出来の悪い歓迎だ。」

 

男はその問いに、あからさまに楽しげな間を置いた。

「邪魔か、いいや、俺はお前の邪魔をするつもりはない。ただ――」

その“ただ”が落ちるより早く、既に奴の手には刀があった。

抜いたのか、生まれたのか、その境目すら見えない速度で生じた刃が、夢の空気を真一文字に裂いて俺の喉元へ突き込まれる。

 

俺はほとんど反射でライドブッカーを引き抜き、その一撃を紙一重で受け流しながら、衝撃を斜めへ逃がして距離を作った。

刃と刃が噛み合った瞬間の音は金属音ではなく、獣が歯を鳴らしたような濁った悲鳴に近い。

夢の床がその余波でひび割れ、暖かな家庭の景色は、今や悪意を隠す薄皮としてしか機能していなかった。

 

「お前が死んだと聞いたら、どうなるのか、見てみたいだけだな。」

その言葉に乗ってくる好奇心は、殺意よりよほど質が悪い。

俺はライドブッカーを構え直し、肩の力を抜いたまま視線だけを鋭くする。

「……趣味が悪いな、死に際を見世物にしたがる奴は決まってろくな死に方をしない。」

 

男は喉の奥で笑い、刀を肩へ担ぎながら、まるで昔から俺の中に住んでいたみたいな口ぶりで言った。

「ははぁ!そう言うなよ、なんだって、俺はお前の中にいるファントムのような存在だからな、嫌でも性質は似る。」

その比喩に、俺は一瞬だけ目を細める。

ファントム。

絶望を餌にして人の内側から生まれる怪物。

そう考えれば、目の前の男の存在は、この夢においてあまりにも腑に落ちすぎる。

はやての不幸を見続け、銀髪の女の祈りと絶望を食い、さらに俺の“死”への気配まで触媒にして生まれたなら、こいつはただの悪意よりずっと始末が悪い。

 

そう考えている間にも、男の輪郭がゆっくりと崩れ始めた。

黒いコートは溶けるみたいに肉へ沈み、白髪は硬質な銀の棘へ変わり、皮膚の下から何か別の生き物の骨格が押し上がってくる。

黒と金を基調に、深紅を滲ませた仮面と甲冑と獣骨が溶け合ったような異形の人型が、夢の底から這い上がるように完成していく。

それは人が想像する悪魔に似ているが、もっと正確に言えば「祈りに呪いが混ざった末の成れの果て」だった。

仮面の奥の眼孔は燃え残りの炭みたいに赤く、肋骨のように広がる装甲の隙間からは、心臓の代わりに暗い炎が脈を打っている。

 

銀髪の女は何も言わない。

言えないのか、言わないのか、そのどちらにせよ、この怪物が自分の失敗や歪みと無関係ではないと分かっている顔だった。

夢の景色は今や完全に侵食され、はやての寝顔だけが、汚れた世界の中心で奇妙なほど無垢に浮かんでいる。

 

怪物はゆっくりと両腕を広げ、その仕草だけで夢の空間を支配するみたいに声を落とした。

「そうだな、こいつらの知識か、ここから俺の名は――」

その声には自嘲も躊躇もなく、名付けられることそのものを愉悦として受け取る怪物の傲慢さだけがあった。

そして、喜びを隠しもしない口調で、こちらへ名乗りを叩きつける。

 

「ジンガ、神の牙と呼ばれた怪物の名だ。」

 

名が落ちた瞬間、空間の温度がさらに下がり、夢の奥から何百もの悪夢がこちらを覗き返してきた。

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