夕暮れの帰り道。三人の足取りは、いつもより少し重かった。街のざわめきは変わらないのに、背中の奥に張り付くような感覚だけが消えない。
「……やっぱり、気のせいじゃないよね」
なのはが小さく口にすると、アリサが即座に頷いた。
「気のせいなわけないでしょ。あれ、完全に“見てた”わよ」
「う、うん……私も、胸の辺りがざわざわして……」
すずかは不安そうに辺りを見回す。誰かがいるわけでもない。それが余計に落ち着かなかった。
「なんていうか……怖い、っていうより……」
「分からない、でしょ?」
アリサが言葉を継ぐ。
「何されるか分からないのが、一番嫌なのよ」
なのはは何も言えず、鞄の紐を強く握った。強くなったはずなのに、戦えたはずなのに、それでも“見られている”というだけで、心が揺れる自分がいる。
「……私、変かな」
その時だった。
「別に、変じゃない」
三人が一斉に振り向く。少し後ろ、街灯の下に立っていたのは、見慣れた姿だった。
「せ、先生!?」
「奇遇だな。まだ帰ってなかったのか」
俺はいつもの調子で肩をすくめ、三人の表情を一目見ただけで状況を察したように目を細めた。
「……顔に出すぎだ」
「え?」
「不安な時の顔だ」
なのはの胸が、少しだけ詰まる。
「……先生、さっき……」
「見られてた、だろ」
三人の目が見開かれる。すずかが思わず声を漏らした。
「せ、先生も……?」
「ああ。だから、ちょっと寄り道してただけだ」
アリサが腕を組み、じっと俺を見る。
「それで? あれ、何だったのよ」
「さあな」
即答だった。
「正体は分からない。ただ――」
俺は一度言葉を切り、三人の目線に合わせるように少しだけ腰を落とした。
「“嫌な感じがした”って感覚は、間違ってない」
「……」
「子供だから分からない、なんてことはない。そういうのは、大人でも外す」
なのはの喉が、こくりと鳴る。
「……じゃあ、私たち、どうすれば……」
「まずは、一人で抱え込むな」
きっぱりと言い切る声だった。
「今みたいに、友達と話せ。それで、どうしようもなかったら――」
俺はなのはを見る。
「教師を使え。遠慮はいらない」
「……先生」
「怖いと思うのは、弱いからじゃない。分からないものを警戒できるのは、ちゃんとしてる証拠だ」
アリサがふん、と鼻を鳴らした。
「……先生にしては、まともなこと言うじゃない」
「失礼だな」
すずかが、少しだけ安心したように微笑む。
「ありがとうございます……なんだか、少し楽になりました」
「ならいい」
俺は立ち上がり、軽く手を振った。
「今日はもう帰れ。寄り道禁止だ」
「はーい」
「送っていこうか?」
三人が顔を見合わせる。
「い、いえ! 大丈夫です!」
「友達と一緒ですし!」
「……そうか」
俺は一瞬だけ空を見上げ、それから三人に視線を戻した。
「じゃあ、気をつけろ。何かあったら――」
「すぐ言います!」
なのはが即答すると、俺はわずかに目を細めた。
「よし」
三人が再び歩き出す背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
(……気づいてるな、あいつ)
それでも今は、これでいい。
不安を感じ、それを誰かに話せるなら、まだ大丈夫だ。
俺は静かに踵を返し、別の方向へ歩き出した。
放課後の校舎を出た瞬間、背中に貼り付くような視線を感じた。はっきりとした殺気じゃない。だが、無関心でもない。じっと値踏みするような、感情を削ぎ落とした意識が、こちらに向けられている。俺は足を止め、何でもないふりをして周囲を見回した。
視線の先を辿り、なのはの姿を確認する。友人たちと談笑しながら歩いている。――違う。狙いは俺じゃない。正確には、俺だけじゃない。なのはだ。街路樹の影、人混みから半歩外れた場所に、人の形をした何かが立っている。距離はある。だが、確実に、彼女を見ている。
「……また、厄介そうなのが来たな」
小さく息を吐く。白月の時とも違う。昨夜の異物とも違う。あれは衝動で動いていた。だが、今感じている視線は、整理されすぎている。恐怖も興奮もない。ただ、情報を集め、比較し、評価しているだけの目。なのはが別れ際に手を振り、家路につく。その瞬間、視線がふっとこちらに移った。
理解した。あいつは俺の存在を把握している。そして、敵意を隠していない。理由は分からないが、少なくとも警戒対象には入っている。――いや、もっと正確に言えば、排除候補、か。
「……面倒だ」
口に出したのは、それだけだ。ここで動けば、なのはを巻き込む。あいつの視線は、まだ“観察”の域を出ていない。攻撃に移る気配はない。なら、こちらが場を選ぶ。被害を最小限に抑える。これまで何度も、そうやって切り抜けてきた。
わざと足取りを変え、人通りの少ない方へ進む。なのはから距離を取る。教師としての顔を外し、旅人としての感覚に切り替える。角を曲がる直前、さりげなく振り返ると、例の人物はまだ同じ場所に立っていた。追ってくる様子はない。ただ、逃がさないとでも言いたげに、こちらを見ている。
「……慎重すぎるな。嫌いじゃないが」
独り言が漏れる。力を誇示するタイプじゃない。正面衝突を急がない。情報を集め、最適解を探す。そういう相手は厄介だ。だが、無差別に暴れる連中よりは、まだ話が通じる可能性がある。少なくとも、理屈はある。
人気のない路地へと足を踏み入れる。わざと無防備に。わざと一人で。追ってくるなら、ここだ。なのはを遠ざけ、街を守り、必要なら――止める。そのための舞台は、もう整っている。
「……見てるだけで終わるなら、それでいいんだがな」
背後の気配が、ほんの僅かに濃くなった。観察が、次の段階に移ったことを告げるように。