オーロラカーテンを抜けた先にあったのは、静かすぎる部屋だった。
本棚も机も、置かれたカップの向きまで揃っていて、まるで乱れそのものを嫌っているみたいに整っている。
こういう部屋は嫌いじゃない。
だが、嫌いじゃないからこそ分かる。
整頓されているんじゃない。崩れたら最後まで崩れてしまうから、必死で揃え続けてきた部屋だ。
部屋の主――ギル・グレアムは、俺がディケイドの姿のまま現れても、驚いた顔をしなかった。
いや、驚く段階はもう過ぎていたんだろう。
ただ静かに視線を上げて、疲れた声で言った。
「……やはり、来ましたか」
「来るに決まってる」
俺は部屋の中央で立ち止まり、あえて椅子にもたれたりはしなかった。
「戦いが終わったから、それで全部片付いたと思ってるなら、お前もだいぶ甘いな」
グレアムは小さく息を吐いた。
反論はしない。
その反論のなさが、かえって気に食わない。
「世界を救う為ならば、1人の子供を犠牲にする。なるほど、合理的かもしれないな」
俺がそう言うと、グレアムの眉が僅かに動いた。
最初から否定されるより、その理屈だけは理解された方が、こいつには堪えるだろうと思った。
理解されていないと言い逃れ出来なくなるからな。
「……あなたは、私を非難しに来たのではないのですか」
「してるさ」
俺は即答した。
「ただ、お前の理屈が分からないなんて言ったら、お前の方が勝手に安心するだろう。だから先に言ってやっただけだ」
グレアムは黙る。
沈黙の形だけで、どこを刺されたのか分かる。
だが、ここで終わらせる気はない。
「だからこそ、聞かせて貰おう」
俺は一歩だけ近づいた。
それだけで十分だった。
この部屋じゃ、距離を詰めるより先に空気が詰まる。
「お前はあの子に対して、どう思っている。ただの生け贄程度としか思っていないのか」
その一言で、グレアムの視線が初めてぶれた。
はやての名を出したわけじゃない。
だが、あの子と呼べば誰のことかは明白だ。
この男は、はやてを知らないわけじゃない。
知った上で、最後には封じる側に立った。
だから訊いている。
あの子を守るべき子供として見ていたのか、それとも最終的には器としか見ていなかったのかを。
「……生け贄と、そのように割り切れたのであれば、まだ楽だったのでしょうな」
「楽だった、か」
俺は鼻で笑った。
「ずいぶん勝手な言い方だな。情があったから苦しかった。だから許されるとでも思ってるのか」
「いいえ」
グレアムは首を横に振った。
「そのようなつもりはありません。あの子を支えたいと思っていたのは本心でした。笑っていてほしいと願っていたのも、偽りではない」
「ですが同時に、二度と同じ災厄を繰り返してはならないとも考えていたのです」
「その二つを、最後まで切り分けられなかった」
「それを間違いって言うんだよ」
俺は低く言った。
「支えたいと思っていた。本当だろうな。笑っていてほしかった。それも本当だろう」
「だが、お前はその本当を抱えたまま、最後にはあの子の時間を諦める側に立った」
グレアムは目を伏せた。
否定はしない。
それでいい。
否定されるより、その方がよほどましだ。
「はやてを監視していたあの仮面の2人は、お前の使い魔だった」
俺はそこで、さらに一枚剥がすことにした。
「つまり、お前は最初から全部見ていた訳だ」
「十一年前に終わらなかったものを終わらせるために、あの子の未来まで材料にした」
「その執念の延長で、海東にも情報を渡したのか」
グレアムの表情が、そこで初めてはっきりと苦くなる。
あの怪盗の名が出ると、さすがに誤魔化せないらしい。
「海東大樹……」
グレアムは小さく繰り返した。
「あの男は、こちらの制御を離れた存在です。私が望んだ以上に、盤面を掻き乱していった」
「だが、最初の火種はお前が撒いた」
俺はすぐに切り返す。
「違うか」
「……否定はできません」
「だろうな」
俺は机の端へ手を置き、少しだけ体重を預けた。
「お前も、あの二人も、結局は十一年前に置いてきたものに引きずられてた」
「クライドを失ったあの日から、一歩も進めないまま、他人の未来で決着をつけようとした」
その名を出した瞬間、グレアムの顔から色が落ちる。
やっぱりそこだ。
この男は、闇の書を憎んでいたんじゃない。
闇の書によって奪われた過去に、今まで囚われ続けていた。
その結果、次の被害者を“必要な犠牲”として扱うところまで落ちた。
「……私には、あれしか思いつかなかったのです」
ようやく出てきたのは、そんな、情けなくて正直な言葉だった。
言い訳の形をしているが、実際にはほとんど敗北宣言だ。
「救う方法を探していたつもりでした」
「しかし、気づけば私は、救うためではなく、終わらせるための方法ばかりを整えていた」
「あの子を救いたいと思っていたのです。ですが同時に、あの子ごと闇の書を封じる準備も進めていた」
「その矛盾を抱えたまま、最後まで進んでしまいました」
「そうか」
俺は短く返した。
「なら、お前が間違えた理由はよく分かった」
グレアムは少しだけ顔を上げる。
その先を待っている顔だった。
赦しの言葉か、断罪の言葉か、どちらかを待っている。
どっちもやる気はない。
「分かったからって、認める気はない」
俺は真っ直ぐ言った。
「お前の理屈も、後悔も、苦しんだことも分かる。だが、それで一人の子供を犠牲にしていい理由にはならない」
「許されると思うな」
グレアムは静かに頷いた。
「……その通りです。許されるとは思っておりません」
「なら、今度は眠らせるための優しさを使うな」
俺はそこで、最後の言葉だけを置いた。
「償いたいなら、生きるために支えろ」
「封じるためでも、終わらせるためでもない」
「はやてがこれから先を生きるために、お前に出来ることだけをやれ」
「それが出来ないなら、償いなんて言葉は二度と口にするな」
部屋の中は静かだった。
時計の音だけが、妙に遠くで鳴っている。
グレアムはしばらく何も言わなかった。
だが、やがて小さく、しかしはっきりと答える。
「……肝に銘じます」
その返事が本物かどうかは知らない。
試す気もない。
これから先の行動でしか、こいつは自分を証明できない。
だったら、今ここでこれ以上言うことはない。
俺は背を向け、オーロラカーテンを開いた。
背後で、グレアムが何かを言いかけた気配はあった。
だが、振り返らない。
「次にはやてへ向ける顔を、間違えるな」
それだけ言い残して、俺は光の向こうへ足を踏み入れた。
夜の冷たい空気が戻ってくる。
戦いは終わった。
だが、終わった後にしか始まらない責任もある。
あの老人がそれを背負えるかどうかは、もう俺の知ったことじゃない。